過去のご挨拶

会報誌No.8より

心の広間と小間

日本人の美的な感性には、表と裏のような、結びつきのある両面性があると言われています。

日常と非日常、完全と不完全、大と小などあります。

日常とは、私たちの実生活のこと。

非日常とは、実生活とはかけ離れている生活観のこと。

完全は、欠けもなく完成されているもの。

不完全は、欠けていて不完成のもの。

大は、自分から見て大きいもの。

小は、自分から見て小さいもの。

これらは、茶の湯の美観ではないかと、お気づきの方はおられると思います。

ご存知の通り、茶の湯は、日常から非日常へ、完全を不完全に、大を小に、このように変化していく日本人の美的な感性を美しいものとして取り入れ、作り上げてきた歴史があります。

茶の湯はモノ・ヒト・ココロの美しさを何よりも尊びます。

そして、モノ・ヒト・ココロの三つが混ざり合う茶の湯の中に、茶人たちは、日本人としての美しさ、日本ならではの美を見出すようになっていきました。

この美しさが極まり高まった時、茶の湯は、道への精神的、思想的な昇華を遂げます。

このことから「茶道」という言葉は、先人たちが築き上げた、モノ・ヒト・ココロの美しさを凝縮させた美の道の結晶体とも言えるのではないでしょうか。

そのため、茶道は、人としての美しさ、人の醜さをありありと暴いてしまう鏡のような力がありますと同時に、清濁併せ呑むだけの力も秘めています。

この清濁をともに吸い尽くしてしまうような茶道の大きな力のことを「一口吸盡西江水」の境地ともいえるのではないかと思います。

また、日本人の奥底に眠る美の感性、心の美しさを呼び覚ます導火線としての役割が茶道には、あるのではないかと私は考えております。

前置きが長くなりましたが、題名についてお話しします。

私たち人は、身と心の相関関係により自分を成り立たせております。

心身の関わり合いが統一し、心身ともに安らかで穏やかな時、自分の世界が平和となります。

因果という言葉がありますが、何事にも原因があって、それに伴う結果が必ずついてきます。

心が荒ぶっている時、身も荒ぶってしまい、結果、言葉や行動に悪い影響を及ぼし、わるい果報に悩まされることになります。

心が穏やかな時、身も穏やかとなり、言葉や行動によい影響を与えられ、よい果報に恵まれます。

自分の心身の具合により、簡単に世界観や人生というものは、よい方にも、わるい方にも変わります。

世界には、自分の力でどうにかなる事とどうにもならない事があります。

それらを見極め、自分の力でどうにかできることに全力を傾け、心身を安らかにして念じるとともに、稽古や修行を通した自己の研鑽を怠らず積むことで、世界の見え方が自然と正されるようになっていきます。

この世界への見え方が正されている時、清濁が混在するこの世の本当の美しさやありのままの姿に心打たれている自分が自然といるはずです。

私たち人の心には広間と小間のようなものがあると思います。

広間は、多くの人を招いたり、好きな物を飾りつけたりできる広さがあります。

広間には、自分の身の回りの人たち、知らない人含め、たくさん座っています。

家族、恋人、友達、同級生、職場の人、隣人、すれ違った人、お店の店員さん、本の著者など色んな人がいます。

広間の心は広く、たくさんの人や物を受け入れられる広々としたスペースがあります。

広間の心の掃除を常に怠らず、片付けられていれば、人としての器も広大になり、人に対し寛容になれます。

そのため、広間の心とは、気持ちが人や物に対して向く日常の中で発揮する外核的心ともいえます。

日常とは、外のことを示します。

実生活のこと、現実的なことなどが日常です。

この日常の中でしっかりと心の掃除に務めていれば、心は自然と寛容になり、人間関係に煩わしさを覚えたり、苦しんだりしなくなります。

しかし、広間は片付けても、片付けても外から人や物が溢れてきます。

広い場所ほど、たくさんの物を置いてしまうこと、ありませんか?

物は外から来ませんか?

小間は、自分一人が静かに座っている場所です。

小間には、自分の本当の心があります。

人の本来の源があります。

広間では、多くの人たちが座っているため、役を演じたり、遠慮したり、顔を作ったりして偽ることもあるでしょう。

時には無理をすることを必要に迫られることがあると思います。

しかし、小間には自分一人がポツンと静かに座っているのみです。

そのポツンと暴れず静かに、正しく座っている、小間の自分こそ心の奥底で私たちが求めている本当の自分自身なのではないでしょうか。

日常生活をしていると、たくさんの現実が迫ってきます。

日常では、自分と相手を比べたり、人や世の中、社会を分別したりして、苦しんだりすることがあります。

日常から離れている小間は、非日常的な狭い空間です。

非日常とは、偽らざる世界、現実の世界ではない、現実ではないものをいいます。

またそこは、理想の世界であったり、理想の自分であったり、夢などを描ける場所ともいえます。

それと同時に、非日常の中には、あるがままの自分がいます。

日常の自分、それは本当の自分自身なのでしょうか。

どこか無理をしていたり、飾りつけたり、求められた役を演じてたり、押し付けられた価値観の中で生きている、自分なのではないでしょうか。

日常では、表現できない非日常の中の自分こそ、あるがままの自分、なりたい自分の姿なのではないでしょうか。

広間は、すごく広いかもしれません。

しかし、たくさんの現実、たくさんの人、押し寄せてくる情報や乱雑な記憶などがあり、心休まることがありません。

広いだけ掃除も大変です。

自分のゴミのみならず、他人が置いていった物やゴミまで自分が掃除しなければいけないからです。

広間は、人や物にギュウギュウに押し込められるような、自分にとって狭い場所なのです。

人は、この広間を無理に広げようとしたり、広間にあるものでは足りないと嘆いたり、人や物をどうにかしようとするから苦しんだり、辛くなったり、常の掃除に追われたりします。

小間は、狭いところながら、精神的な無限の広がりを求められる理想郷なのです。

起きて半畳寝て一畳という言葉もありますが、この狭さでも、十分足りていると心の底から思えるかどうかで、人としての一生の幸せ、人生の満足感は変わってきます。

そして、自分の手が届く範囲のみしっかりするべきなのです。

無理して自分の手が回らない場所まで手をつけると、苦しいだけです。

無駄なエネルギーを使うだけなのです。

茶室でいえば、小間を作る方が大変だと言われています。

それと同じように、小間を自分の心の中に作るのは難しいことなのです。

小間を作るには「心に草庵を作る」という決心がなければ作れません。

小間は安らかな内なる関係です。

心に草庵を結び、そこで、あるがままの内なる自分を見つめ直せた時、自分の本当の人生を歩めるのではないでしょうか。

足りない、足りないと嘆き悲しむ苦しい生活から抜けることができるのではないでしょうか。

そこに大自在、知足の世界が広がっているのではないでしょうか。

小間の力を心の源にして、広間での日常を正して、力いっぱい今を生き尽すことが肝心です。

そして、和やかな顔と愛のある言葉で人々とよく交わり、相手を思いやり、人と人とのご縁を大切にして、自分の人生を一つ一つ味わいながら、生き尽くす覚悟を持つことが人としての成功であり、人としての大事であると思います。

今を精一杯生きている、あなたにお伝えしたいことがあります。

自分の心身ともに休まる「心の草庵」を自らの手で作ってください。

幸せになってください。

私は、あなたの「こころの草庵」成就を願っております。

あなたの幸せを願っています。

日頃よりお支えしてくださる会員の皆様、ご縁ある皆様にお礼申し上げます。

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