過去のご挨拶

会報誌No.4より

何のために生きているのか

私たちはこの世に生まれてすぐに内と外

私と相手という分けられた事実を知り、私が今生まれたこと、一人で自らを形作り歩まねばならない真実を知ります。

人はずっと「ある」もの、「ある」ことを求め続けています。

それは、自己があるということを、あらゆる手段により、認識し、自分を認めてあげたいとする一心の思いから行われます。

次第に自己とは何であろうか。果ては、「私は何のために生まれ、生きているのか」という大きな問題を人は抱えるようになります。

人類の究極的な命題は「私は、私たちは何のために生きているのか」であります。

何のために私は生きているのかを知りたいが故に、学問や経験を積んでみる、修行する。あらゆる努力をするも、それらは仮初の人格を持たされた、私にすぎません。

では、言葉を反転させ、考えてみましょう。

「私は何に生かされているのか」と。

この世に生まれたのはご両親の縁の巡り合わせによる諸行やお陰様、こうしてご飯を食べ、よく生きているのも、それらを作り出している人がいるおかげ。幸せを感じることも、笑えるのも、悲しく、苦しいのだって、私の心が生かされ「ある」から。

人が生きている実感、幸福や最大の喜びを覚える瞬間は、大いなるものの有り難みを知り、感謝できた時や自分や他人を分けず、見れたとき。己が身さえも忘れ去り、他がために尽くせた時であるといわれています。

心臓に手を当てると、鼓動が聞こえ、生きていることを知ります。

何かに信念を燃やし、一生懸命になり、達成した時に、生きていること、生かされていたことを知ります。

私がなすべき道は、あることを知ることであります。それは、自分という存在があり、生き、生かされていること、そして、あるべき姿があることを認めるということです。

もっと強くいえば、私の「あるべきようは」を究極的に探究してみるということです。

それら自己の「あるべきようは」が他にあると思い、外にそとにと求めたところで空虚なことであります。

自己が「ある」とわかるのは、自分しかおりません。また、自己があるとわかると、他と自の分別区別は本より無かったとわかります。

私たちの本質的な願いとは、私も相手も分け隔てなく、みんなで一緒に救われたいというものであります。

それこそが、人類が最終的に目指している、大道であったりします。

「初発心時便成正覚」という言葉がありますが、自分は成功する!理想を叶えてやる!と決めたら専一にやり切る。

その発された初の心は円満な心にとすでに結びついているのです。発心こそ円満成就の形の一つでもあります。

自分は救われんでも、相手が救われたなら本懐である。と思えた時点で、成功した私はあることになり救われているのです。それは、自分は何のために生きているのか。とする問や苦悩や苦しみから救われた証でもあるのです。

古人の歌に、このようなものがあります。

「人をのみ渡し渡して己が身は岸にのぼらぬ渡し守かな」

あなたを皆さんを彼方に渡しましょう。

私は一生船の中の渡し守で結構です。とするその心が渡っているということなのではないでしょうか。

己が身を捨てて、ぜん成るを求め、行じ他を生かす。その行いができる自分がいるという事は満ち成功している私が既に今あるということなのです。発心と行いを通じて実りは顕となります。

相手が幸せなら、救われたなら、それでよろしい。家族が大切な恋人が幸せなら、なおよし。

心の奥底に眠り続け、いつまでも起きぬ私に喝を与えてみましょう。これ、これ、起きろ。と。

今の私に何がなせるのか、できるのか。を考えに尽くし、信念を持ち、道に歩々する。それが生きるうえで肝心です。

生まれたということは、あとは死ぬまでの間、探究し尽くした、自分のあるべきようを貫き通すだけであります。命に至る門は狭く、その道は細い、それらを見出すのは、専一な心を持つ、自分自身であります。

そして、その命に至る門をにじり入り、細く狭き道を共に見出し、一緒に歩まんとしてくれる人はいます。

兎にも角にも、光明がほの見えて、私のなす事、あることが分かったのなら、信じ念じて直向きに愚直に進むのみです。

光が照らす、道なりに迷わず歩んでいけば、かならず世界の成就は叶います。

一休さんの歌に

「おしなべて心一と知りぬれば 浮世に巡る道も迷ず」とあります。

我が身というのは、借り物の道具でしかありません。私たちが起こしやすい、感情の揺らめきや、苦しい悲しいと言ったネガティブな事柄とて、肉体という道具が感じ入っているだけで、心はそうは思ってはいなかったりします。道具に心が振り回されないように気持ち心すること、上手く身体を扱いきることが大切です。

定めのない世の中でも、心一つなれば、世の道に迷ったりはしません。

何より、悪い感情は心を良き方には導きません。善は善より報われ、悪は悪より報いに来る。

歩々する我が身に清風を起こし、心の空を明るく、晴々とし、善き方へと心を寄せていくことが肝心であります。

自分の「あるべきようは」を知り、心を明るくする方法は、信じ念じる(信念)道を見つけるということです。

成功とは、名や利を得ていることではなく、私があること、円満で幸せなことではないでしょうか。

この世にあるのは、成功と成長のみと常日頃申している人もおります。

心一つと決めて、一本道を見出し、その道を歩むと定め、精進に尽くし、成功した私の姿こそ、本来の自己の願いなのではないかと思うのです。

家族や恋人を大切にし、周りの人に感謝をして、貴方なりの歩み方でよろしいので、歩々してほしいと切に願っています。

茶の道も心の道も一心愚直に進むべし いずれは菩提の道へと至るなり

己が身を捨てて与えて細なれど 満ちる心は○成就

お支えしてくださる会員の皆様、菩薩様のあなたに感謝をして。御礼合掌。

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