過去のご挨拶

会報誌No.3より

「私と心」

私の中には何が流れているのだろうか。何が有り、何が無いのか。それとも既に全てを持っているのか。

それは自然の中に育まれ、生きるようなものだろうか。

人の感情という自然物は川のせせらぎ、水面の揺らめきのような落ち着き、頭と頬を撫でてくれるかのような風の優しさを持っているかと思えば、時には落雷の如く激しくなります。そしてある時は大地が枯れ、導ともなる炎が消えたかのように無気力、無人となってしまいます。それもまた人ゆえの自然な営みであり、美しさでもあるのです。

私にある一物の心という無尽蔵で無限大の世界から私は何をこの今に投影させているのか。

その答えは自分の「私の心」という存在に隠れています。

ある老学者が90歳の省察として本を記しました。

「心とは言語を通じて他の心と交流することが可能となり、そのことで社会に対する自分自身の適応の仕方に責任を持つことになる。脳は身体の働きを正常に保つこと、心の働きは異なるであろう他の心と交流することによって、心の全体を、言い換えれば社会を、その自然的、あるいは人為的環境に適応させて、生存し続けることを可能とする」

心とは自己の感情の総本山であり、脳細胞に組み込んでいる知識や知恵、記憶・経験等から、それらを制御し、言語や仕草という身体的ツールを通して自己の心と他の心とを結び合うことを可能とする。となるのではないでしょうか。心と脳は自分が人との共存を助けるものでもあるのです。

故に茶道では異なる心を有する人を招き、おもてなしさせていただき、言葉や仕草などにより思いを伝えます。そして、心と心が重なり合う瞬間を感じ取り、互いに一期一会也といいます。

そのため茶の湯では市井に有りながらも、自分と相手が心の空間に存在する山居に居るかのような心地良さがあり、世俗では理解、結び合うこと難しい者同士が、我を忘れて互いにお茶を飲む。心の蟠りや我を解けさせ、仲様になる。

成すには好む・好まざるを問わずにどんな人にもお茶を「一服いかがでしょうか」とする心持が肝心であります。

私の本性を知るためには一心に稽古に励み、どんな身になろうとも修行する。それが大切ではなかろうかと思っております。

なぜ、お茶の稽古・修行するのか。それは「修茶一等」

お茶は自分自身のためにするものでもなく、人のためにするものでもありません。また、幸福や名を残したいがためにもするものでもありません。

修行・稽古は茶を成すための手段ではなく、修行・稽古とは別として、そのお茶を期待してもなりません。修行の中にお茶があり、行学を実に証するであります。

修行とお茶は一つです。修の中でお茶という恵みをいただき、喜び感謝する。

「ただの円相 茶法のために茶法を修する 即ち是れ道なり」

真ん丸の心を囲う線を得道とし、その無一物中の無尽蔵の光をいただき、その無から発せられる純心無垢な輝きを己に見出し、我が身をおき、貫き、さらに現成輝く。

茶を行ずれば、自ずと輝きます。

最後に「私」という文字を一つ、一つ分解してみてください。ある姿が浮かんでくるはずです。

光り輝く会員の皆様、菩薩様のお支えしてくださる皆様に感謝をして。御礼合掌。

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