過去のご挨拶

会報誌No.0より

わびる

「我の茶や茶仏滅し闇晴れて心の空に侘びの心月」先に私の拙いお歌を皆様に。

自分の物差しや経験、知識に縛られることなく、また、他にも縛られず不自然に貴をてらうことなく常に自然にありたいものですね。不自然もまた自然と対になる存在ですが。行為に意味を持たせないことが無なる為となるのでしょうか。

茶道、茶の湯の世界ではことに「侘びる」の言葉が好まれて使われています。

茶人の生き方や道具の組み合わせなどにその侘びが求められ、望まれています。

しかしながら侘びとは作為的にそして意識的に表現し、世に現出されうるものではないと私は思います。

茶人の生き方で考えれば侘びは本は内から自ずと出る自然なものであり、無為で自然に世に構成するもののあるがままの現状そのままが侘びであると考えます。道具の組み合わせ一つ取っても、歴史経緯や美的、学問的「侘」から組み合わせてはただの人の真似であり表面上のものでしかありません。例えば裕福な者が侘びだと言い美的な「侘」たる道具を用い、

その価値は美術館級の高値の物の場合、それはただの「寂」でしかありません。

寂は意識的に常日頃弁え生きることが可能な一つの茶道の精神でもあります。

見た目は貧しくとも内に秘める茶の湯が好きという気持ちや修行稽古に対する熱き想い、心根の良さは自身を輝かせられます。どんな道具も方便であり内包する美を有する友で用いる茶人により生き、内に有る真が現出します。侘びも寂も表裏一体であり、二つは一つで一つで二つであると考えます。

話は少々変わりますが、世にいるすべての方々は貴人であります。会員の皆様は未来や多くの人のために日頃から過ごされていると思います。いとも貴人で有り難い限りで御座います。

こんな至らぬ私が北茶の理事長として座れるのも皆様のお支えとお力があるおかげでございます。私はお茶のことしか知りません。諸道、諸芸に通じる諸先生方、諸兄諸姉方に多くを教えていただきたいです。また、至らなさを詫びる思いでいっぱいです。面白いことに侘びの話から「詫び」が出てしまいました。

この詫びももう一つの「侘びる」ということなのでしょうか。

不自然に尽くすことなく目の前の多くを出来ない至らなさをわびて生きていければ自然と気付いたら有心が出ると思います。それと同時に茶の湯の精神性が高まった要因あり、「茶道」としての形成に大きな影響を与えたと言われる「心の文」にて傲慢と慢心はよろしくないとの考えもあります。心を律し礼節を尽くせば傲慢も我慢も出ないものです。自分を導いてくれる心の師を大切に、されど自分の心は師とはせずに歩むこと心がけたいものですね。

まずはどんな人にも礼と和をもって接し、人を想い、目の前の人を皆是貴人と思いお茶を点て続け、自然と気付かないうちに「有るがまま」が内に有る事を切に願います。礼をもって「和」と成し、和からは「敬」を生ませ、敬から本なる「清」を育み、因果の「寂」は侘びの境地へと至る。そして心や流派、人々の垣根を越えてお茶を一服。

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