過去のご挨拶

会報誌No.5より

生き尽くすということ

「人生は一度きり」という言葉は皆さんも耳に胼胝ができるほど聞いてきたと思います。

人生とは「人が生きる」と書きます。では、具体的に人が生きているとは何を示し、どのような根底があってわかることなのでしょうか。

第一に自分や他人が今を生きていることが主観的または客観的にも確認できること。

人生は一度きり。この表現の根底には物理的面において生きていることが認められると判断されている時又は活動をしていると使われます。

そのため物理的に存在しない対象には使われません。

第二に自分が今の世界で生きがいをもって、若しくは今を生き尽くしているか。どうかであります。

生きがいという言葉は日本語にのみあると言われています。

このような言葉が日本にあるということは我々日本人の根底には生きる目的や意味、その価値を思索するだけの重要な命題があったように思われます。

生きがいという言葉の使い方は二つあります。

一つ目はこの子は私の生きがいです、貴方は私のいきがい、これは私にとって生きがい、などという場合のように生きがいの源泉、または生きがいの対象となるものやその人を示すときと生きがいを感じている精神状態などを意味するときとこの二つであります。

前者の意味を「生きがい」として、後者の意味をヴィクトール・フランクルのいう生きる意味への意思に近く、これは「生きがい感」の源泉と分けて考えます。

人が生きがいを見出すとき対象となる人やものを純粋に愛すること、必要であるとする心の存在が不可欠であります。

本能的欲求より高次元なもの、本能的ものでは到達することができない境地として純粋な愛というものがあります。我が子のため、愛する人のため、などという場合、一途な愛情、無償の献身や慈悲性、自利より利他を優先させるなどの心の働きがあるからです。

人間には直観や本能や理性、理知では見つけることのできないものとして本性があります。その本性の持つ性質の一部分に慈愛があるのではないかと思われます。

隣を考えて、隣と思わない。隣と分けてしまうとそこには分別の知恵が生じています。

本当の慈愛ある者とはこの世のすべての人々、衆生を家にいる我が子のように、家族のように心の底から愛せるものをいうのです。

生きがい感を発生させるためにはネガティブなものに心を引っ張られないように気を付ける、またはネガティブなものをポジティブなものに変換する必要があります。

そして、自分の人生そのものの問いや命題に一つ一つ答えていくこと、自己の人生そのものに生きる、死ぬという意味ある責任性を与えること、それらを上手に育てることから始まります。

人が最終的に目指しているところは人生を実りある、満足のいく形にすることであります。

人生の満足を認めるためには今生きている有難い自分に気付いてあげられるかどうかにかかっています。

自分の身体や心があるほど有難いものはありません。

こうして心を働かせられるのも、人と出会えるのも縁あってのこと。

すべては所縁により結ばれているのです。

その縁のすべてにより人は生かされているのです。

あれが欲しい、これが足りないと常に欲しているままでは、苦しいままなのではないでしょうか。

自分がこの世に生きているほど、業深く、愚かで、幸せで、有難いものはないのです。

私たちが生きていられるのは、動植物の尊い命をいただいているから。

だからこそ、生きられなかったものの分まで精一杯生き尽くして、感謝をし、供養としないとならぬのであります。

私たちほど愚かなものはおりません。なぜなら、所業を背負いながらも欲深く生きよう、欲深く死のうとしてしまう。

生きるなら生きる、死ぬなら死ぬ。それでよろしいはずなのに生の有限性に恐れ、死の無限性に畏怖して欲や妄想に染まってしまう。そう恐れず、生きているなら生きる!と図太く、愚直に今を生き尽くしてみればよろしいのです。

人は永遠性を得ることなどできません。人は必ず死ぬのです。

だからこそ、いまを必死に生き尽くすのであります。

満足な人生を送るためには、大小様々な人生の道を絶え間なく選択し続けること、道を自らの手で切り拓いていくことが必要です。

その選んだ道は楽ばかりではなく苦もあったり、泥道、茨道であったりするかもしれません。

思った通りに道を切り拓くことができないかもしれません。

それでも、自らを主人公としてこれを選んでいかなければいけないのです。

臆せず、怖がらずに真正面から立ち向かい一つ一つと正しく決断していくことで人としての深み、人生の深み、真価はあらわになってきます。ここに人間としての生きがいというものが出てくるのです。

自分の人生を価値づけるものは自らを人生の主人公としかと心得て選択するところにのみ見出されるのであります。

こうも波のような心があって、毎日を迎えて幸せではありませんか。

心も在り、日も有る。これほど幸のあるものはないのです。

今日という日に生きられなかった人間や動植物の分まで精一杯生きて、生き尽くして、自分は日に生きている幸せを噛み締めてください。

そして、自分を生かしてくれるこの世の恩に報いてあげてください。

生きていることは有難い。死ねることも有難いこと。すべては完、有難いことなのです。

満ち足りている主人公の自分に先ずは気付いてあげてください。それが、足ることを知る一歩となるでしょう。

人生ということなので、良寛さんがダルマをみて語った「起き上がり小法師」を紹介します。

 

人の投げるにまかせ、人を笑うにまかす

さらに一物の心地に当たる無し

語に寄す、人生もし君に似たらば

よく世間に遊ぶに何事か有らん

だるまさんは人に投げられても投げられたまんま、笑われても笑われたまんま。

それに対して分別も感情も妄想を起こさない。

私たち人も君のような生き方ができるならば、人生を暮らすのに何の苦労もないであろうに。

 

このように良寛さんはいいました。

来年は丑年ということで、「騎牛求牛」についてお話します。

探している牛にすでに騎っているのに、牛を探し求めているという意味であります。

頭の上に眼鏡が乗っているのに、眼鏡のことを必死に探しているのと同じですね。

私たち人は外に答えやヒントがあると思い、探し求めては心迷います。

しかし、その迷いから脱却できれば、本来の面目や本性、悟りなるものの境地が啓けるのではないかと思っています。

しかしながら、迷いと悟りとは相反して存在するものではありません。

コインの表と裏のようにぴったりくっついているのです。

有無とは手をパチン!と叩くと無の空間から自分が有を生み出します。

そして、一瞬で無に消えていく。離れているように見えて、結びついて見える有無の世界は一つで二つでありながら、二つで一つであります。

自らの手でパチンと叩き合わせ時、完全な世界が完成し、合わさります。

このように迷いの中に悟りはあり、悟りがあるから迷いもあるのです。

迷いも悟りもただの念でしかありませんが、そのことに気付かなかっただけか、気付きたくなかっただけなのです。

修行をしたら、稽古に励めば迷いの世界から抜け出せるのでしょうか。

自分の面目や本性、理想郷を求めて修行や稽古を積めば、悟りは得られるのでしょうか。

すでに牛に乗っている自分に気付くこと、自分の身体も心もしっかり満足と有ることに気付いてあげることこそ無事安心な悟りというものなのではないでしょうか。

 

さとらぬもさとりもおなしまよひなり

さとらぬさきをさとりとぞいふ

と一休さんはいいました。

悟らぬことも、悟りも同じ迷いである。悟らぬ先を真の悟りという。という意味になります。

「先を」を知れるのは自分だけであります。

それは、有るようで無いもの。無いもので有るものなのです。

鈴木大拙はこのように申しています。

「禅の要求するのは、我々が生きていく上において、或る確かな自覚の経験をもつということである。この自覚が我々人間を他の形の生物から質的に違ったものにするのである。そしてこの自覚にこそ、我々が千差万別であるにもかかわらず、平和の究意の住処を見出すのである。」といいました。

また「自主自立の獲得に最も必要なことは、自分の行為に対して責任をもつことである。」

平和とはなごやかなことを示しています。

自ら目覚めることでそれが訪れるのであります。

臨済録には無事是貴人という言葉があります。

お茶では平穏無事に過ごしている人は貴人である言われますが、無事の意味をもっと深く探究してみましょう。

無事とは、外に求める心がピタリと止んだ時であると説かれています。

私たち人は外に求めるものが非常に多くあります。それは、財産や知識、教えであったり、幸せであったり、愛情など、さまざまなものであります。

茶道の稽古・修行であれば、お茶とは何かを追い求めます。

求める心がピタリと止むとは、無理に追い求めようとしないことではなく、求めなくても十分に満ち足りている私に気がついてあげることです。

臨済禅師は「求心やむ処、即ち無事」

外に向かって求め回ることをやめて、足りていることを知れたなら、即時に無事、大安心であるということです。

外に求め回ることをやめ、一切のはからいの心を捨てて、何もしないという無為こそ無事安心を知る法であるということです。

生き尽くす尊さ、生きている有り難さ、多くに生かされていることを真に知れたからこそ、無事安心な境地が生まれるのではないでしょうか。

また、人生が満足、十分に足りていることを知ったから、現成受用をできるようになる。

しかしながら、足ることを知るには、足らぬ自分を知ることから始まります。

日々は新たにして、日々は成長です。

私はこのように思います。

生きているのはおかげさまがあるから。

生きているという真実は何よりも価値のあること、そして生かされていることに気付き、私を生かしてくれている、この世に、人に感謝を伝えて報いてこそ、貴人であると。

外に求め回りはしないが、外に出て一人一人の和顔と無事を願い、感謝報いる。

それが無事是貴人の本来の姿ではないでしょうか。

私だけ良ければ善とするのではなく、和顔と愛語、無事安心な心を人にも伝え回ってこそ真の貴人であります。

人生の満足とは有難味の中で生きている自分に気付けるから感じられるのです。

人生を実りあるものに導き、人生を生き尽くせるのも自分自身です。

そして、その答えは案外身近なところに隠されているものです。

この世の主人公は自分自身であるということに気付き、自分の人生を無事満足に生きられる人がたくさん現れますことを切に願っています。

最後に申し上げます。心一つ、身が一つで無事なることほど有難いものはありません。

お陰様で今日も無事であります。

全ての御縁、法人をお支えしてくださる会員の皆様、菩薩様の貴方に感謝を捧げて。御礼合掌。

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