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雪解け水の音「ある茶の湯スクール生徒の言葉」

炉の時期が終わるこの頃、気温もだんだんと高くなり、ほの暑さが出てきます。

札幌の四月終盤は過ごしやすい気温であります。

それでも他の地域と比べると北海道はまだまだ肌寒く、山の峰にも雪が積もっています。

茶の湯スクールKITASA開校式の日、私は「この釜の声はどのように聞こえますか?」とある生徒に尋ねました。

そこで、この釜鳴の音をじっくりと聞き、受け答えた中学生の男子生徒代表は「山の雪が融け、雪解け水が下る音に聞こえます」と。申しました。

その言葉を聞いて私は「四時歌という漢詩の中に「春」に関するものがあります。春水四沢に満。雪解け水の春水が四つの沢に流れる様子です。山の雪が融け、上流から下流へ流れるかのように」

それを聞いた生徒の笑顔と凛々しき顔は今後の歩みの速さを象徴しているかのようでした。

まさに四つの沢の水音がそれぞれに違う音を持っているように、生徒一人一人には異なる心の音がありました。

最近若者の中で人気のある「鬼物語」があると聞きます。その物語の鬼は藤の花を嫌い、避ける傾向があるようです。

この釜にも藤の花が描かれています。

鬼は外から訪れて悪さをするわけではありません。常に気付かれないように人の心の中に住んでいるのです。

このような歌があります。「みな人の心の底の奥の院 探して見れば本尊は鬼」

人の善き心を探し求めてみれば、そこに住んでいたのは結局のところ鬼であった。とする意味があります。表面上で良き事や善行を成すことに苦心していたとしても、いざ自らの身の危機感じ、身を差し出す危険があると知ると、人は我利我利となります。

普段良き心がけをして生きている人が、ある日突然、我こそは先にと走ることがあると聞きます。

鬼は常に隠れ、人の心を喰うてやろうかと狙っています。喰われるときは人の心が弱った時なのかもしれません。

人は自己の安心と幸せが担保されている状況下では慈悲の心があります。しかしながら、それらが反転したときに無慈悲にもなれる生き物なのです。如何に世相が変わろうとも、どんな時でも慈愛を持ち、人に接することが出来るものをこの世では菩薩ともいいます。

ただ、鬼を滅するだけでは、次から次へと鬼は増えて、人の良き面に反発します。鬼を「鬼滅」とするのではなく、鬼さえも仏に。もっと言えば、鬼にも花を、鬼にも団子を。鬼に金棒や刃ではなく、一輪の花を持たせてあげられるだけの心の聖域を増やすしかないのです。

「鬼物語」の心優しい少年は鬼にさえも、慈悲の心で接しました。その結果、鬼は涙を流し、人の心に真住まう、仏を見出したのです。

鬼は鬼になりたくてこの世に生まれたわけではありません。この世の摂理が左様に鬼を生み出したのです。

鬼が人の心を喰いたいのは、真を知りたいから、寂しいからなのかもしれませんね。

人の心の先には、聖域と呼ばれる場所があります。その聖域に慈愛と慈悲という優しい雨を降らしてあげてください。

その雨が豊かさと潤いをもたらし、鬼さえも感化してくれます。

有難さに溢れた世に感謝して。御礼合掌。

人喰うか 我も喰うぞ鬼太郎

心の奥の院にわしも座ろう いつかお主も救われるように

ここでともに喫茶して去るも一興

佐々木宗芯

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