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行学実に見る茶人像 誤解された茶人文盲の意

茶道は経験と歴の長さが大切であって学など不必要だ。

お茶ってただひたすらに師の言うことを聞いて点ててさえいれば良いんだよね。

茶道は総合芸術とよばれるほど深いんだから、先ずは学問から修めるべきだ。

お茶に行学どちらも欠かせない気がする。でも自分が実に結び付けるには難しいな。

お茶の先生ってどこか偉そうだよね。

概ね行学どちらも大切であるとするお声のほうが多いと思われます。

ここでは行を「行うこと、所謂点前などを示す全般的な言葉」学を「師より伝え聞くもの、茶書より学ぶもの、所謂知識、知恵の総体を示す言葉」として置いときます。

後に茶人文盲とはについての理解を深めるために文字の連結部を切断して茶人・文盲この二つを分解し、解釈理解した上で、統合させた形での茶人文盲に関する定義付けを行います。

茶人とは辞典などの解釈によると

一 茶の湯を好む人。茶道に通じた人。茶道の宗匠。茶の湯に携わる人。茶道に明るい人。

二 普通の人と違った好みのある人。物好き。風流人。また、浮世離れした、一風変わった人。物好き

と茶人について記載されています。

ここでは辞典とは違う定義付けを行います。

では行学実有る茶人とは何を示す語であるのか。

一 行 茶の第一たるお茶をよく点てること。第二よくお茶を飲むこと。常忘れずに一心求め行う者。

二 学 古の茶書の尊さを知り良く学び、歌や学問を好む者。師への畏敬を忘れず全てを頂く覚悟有者

三 実 行学で会得したものすべてを実践実行により実らせ、また一に戻り、行学を繰り返すこと。

と私は行学実を定義いたします。行は体 学は頭 実は心となります。

「働かざる者食うべからず」とあるように自分だけお茶を飲んでばかりでお茶を人に点てぬ者はお茶を飲む資格はありません。茶の湯の第一はお茶を点てる事。第二に良く飲むこと。これにつきます。これらを常に忘れずに行い、一心で日々稽古修業に励みます。

古の偉大な茶人たちの書き記した茶書にその弟子たちが集め記した師の言葉の書は今の茶人に多くの知識や知恵を与えてくれるものであり、その数々の広く深い茶の叡智には自分を知る、人を知る術が多く残されています。良き茶を見つけるには古に鑑みてみることが必要であります。俗茶とならぬように導く言葉や文が多く見つかるはずであります。また、村田珠光、竹野紹鴎、千利休はお茶の美意識や心にその意を文学や歌人の和歌になぞらえ残しています。

ここでは簡単にそれぞれの美意識への理解として記すのみにいたします。

村田珠光は兼好法師著の徒然草の一説「花は盛りに、月は隅なきをのみ、見るものかは」という文から「月も雲間になきは、嫌にて候」の文を抽出してその美意識を表現しました。

竹野紹鴎の美意識 藤原家定「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」

千利休の美意識 藤原家隆「花をのみ待つらん人に山里の 雪間の草の春を見せばや」

いずれも目に映る一種の流動意識、若しくは心に映る美的原理の表現で有る事は変わりありません。

私が恥ずかしながら若き頃に記した数ある論文の一つ「小倉百人一首における美意識と茶の湯(茶道)文化との連関性及び共通美意識の歴史的現出とその考察」はページ数が多いため、今度お話いたします。

学において最も大切なのは自分が尊敬する師の全てを尊び、良く学び、真心をもって常に接するということであります。その師に良く付き、そのお茶の風を体と頭にいただき、果ては「門前の小僧習わぬ経を読む」であります。菩薩様のようなお師匠さんに出会えたら良きにございますね。菩薩はまた菩薩を生むという言葉もございます。

その人その人に合わせた教え方と同じ位置まで身を低め屈む姿勢のとってくれる、行学ともによく教えてくれる菩薩道を成す師に付くということは「実」に自分を至らせるにあたりとても重要であります。

行学を努力精進しているのに師に全否定されたら元も子もないです。否定ではなく、導く言を選ぶ「このようなやり方もありますよ」と諭してくれる良き師に巡り合うことは難しいといいますが。叶わずとも先ずは自分から菩薩様に成られる努力精進をし、今の師の全てを素直にいただき、和の有る良き空間をその実(身)から生み出したら良いと思います。

堀内宗心宗匠も歩々清風というご著書の中で、「お茶を教えるということは菩薩道であります」と説いておられます。

兎に角、今の師を大切にされてほしい。それだけです。貴方の先生はご立派な先生ですよ。

「先生」の資格をお持ちの方も人様のお弟子に点前が違う、作法が違う、ダメだしなどをその子を預かる師を飛び越えて注意するのは控えた方がよろしいとだけお伝えします。

お弟子の成長と自立を願う師は時に「鬼にも 仏にも 神にも」なります故。ご注意されたし。

長くお茶の道を歩まれた経験豊かな歴のある先生は皆から無条件で尊敬されて然るべきであります。

しかし、人から「先生」と呼ばれ続けてしまうとそれが当たり前となり主観論者となってしまい、あたかも自分がお上である、絶対正しい、茶歴の長さゆえの強固なプライドと自尊心が自己の正しさの邪魔となり、時に我執と我慢が自分の身体を無意識で支配しています。

そうならないように究極的に自己の客観視に励み、肝に銘じておきたいことは珠光さんの心の文の一説「茶の湯修業において最も邪魔になるのは、心の我慢(我こそはと慢心する心)我執(自分に執着して我を張る心)である。そうならないために心の師とはなれ、心を師とはせざれ」と続き、最後には先ほどの意図とは逆のことを申します。「我慢、我執もなくば成就せぬ道也」と終います。

究極的な客観視とは自分の頭上に第三の目があるイメージで事を概観するということです。そして思い出してみるのです。自分が師に言われて成長したこと、出来なかった初心の頃の楽しさと悔しさ、新たなことを学ぶわくわく感、言われて傷ついたこと嫌だったこと。色々と思い出して人に良き言霊をかけるのです。そして、自分と相手を傷つけないように誠の意味においての我慢と我執を静かに生じさせ、実のある意に結び付けてみると良いと思います。嫌なことを言う、怒ることは人が最もエネルギーを使い、生命の危機に陥れる恐ろしいものです。

「実」は実るとも書きます。心を種とし、一からその種を実らせるために十を学び、その法を知り、行を成し、あとは行学ともに融合させて、実践実行により実(身)を定め深めていく。そして食うてまた一に戻る。実とは心であります。その中身を空っぽにするのも、実りあるものにするもの、人の業であります。出来るなら食える物のほうが良きですな。

夏目漱石の「草枕」は著者の美術的観点が豊富ながら、茶道に対しては後半部にて厳しい意見を書いているものとして有名です。草枕は茶道擁護の岡倉天心の「茶の本」と対比で語られることがあります。

草枕の冒頭部分に出る内容を記します。「知に働けば角が立つ、情に棹されば流される。意地を通せば窮屈だ、とかく人の世は住みにくい。」自分が理知的でいようとすると人間関係に角が立ち、生活が穏やかではなくなります。情を重んじれば、どこまでも周りやその感情に引きずられてしまう。意地を通せば自分や相手に執着して窮屈に感じてします。ようは何事もバランスが大切であります。

茶人のことを少しお話したところで、茶人文盲について最後にお話します。

文盲とは

無学で読み書きできないこと。その人を示す言葉とされています。

この意味に茶人を加えた言葉が茶人文盲です。

茶人文盲とは茶人たるもの文字を知らずともただひたすらに点前だけをしていると良いとする考え方であります。良きお考えであります。茶道が自己の覚醒に至らせる一つの方便とした場合、ひたむきに点前を一つ一つと繰り返し何度も成すことは原点に戻ることを助ける行となります。覚醒とは有るようで、無いようなものでありますから。

やはり先も申し上げたように茶人は点前が最大の修業である事実は古今東西変わらぬ真理であります。その点前を深化させていくと好むや好まざる(嫌)自己と他己と人を分けて扱うことはありません。

どんな人にも等しくお茶を一服と申せます。

お茶が幼き頃より日常生活の一部である私は毎日自宅や事務局、茶室にてお茶を点て家族やみんな、お人と飲んだり、一人独服したりとお茶を欠かさずの日々を過ごしております。

そして時にお返しのように点ててもいただきます。

茶室で改まってではなくとも気付くこと、気づかされること多くあります。それはみんながいかなる時でもお茶飲んでは笑顔になるということであります。リラックスした空間だからこそ生まれる「お楽に」の真意。

和顔愛語有り、みんなのお茶が北茶の皆と共有できている事実は誇らしくも、頼もしくも感じます。

最後に宗祇、肖柏、宗長ら三人が歌った良き連歌集「水無瀬三吟」より私が北茶に持ち続けてほしいと願う心、お茶の意を古人になぞらえてお伝えします。

97番目 山はけさいく霜夜にかかすむらん 宗長

98番目 けぶり長閑に見ゆるかり庵 肖柏

暗く霜の厳しさ有る山の中を歩く者は前を向けば霞む視界に参っていた、ふっとその者、顔をあげると、そこには煙が立ち上るどこか懐かしい庵が目についた、何故だろうどこか長閑な場所に感じるなと思いながらも、霜で冷えた体暖めようと庵ににじり入り、そこにいたのは笑顔で迎えてくれる一人の茶人であった。茶人は何も聞くわけでもなく、ただその者に手を拈り微笑を湛えお茶を点て差し上げるのであった。すっかり心も体も温かくなったその者はまた、厳しき霜夜に中に戻るのであった。また此処をいつでも尋ねることができると分かっているから。

佐々木宗芯

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