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茶道を習う「門に到る厳しさ優しさ」

茶道を習ってみたい。

茶道は敷居が高く感じて門を叩きづらいなぁ。

茶道は日本の伝統文化だから相当厳しいよね。

茶道に興味はあるけどその門に至るまで遠く、敷居を跨げないとする声が時より聞こえてきます。

茶道を習いたい!とする気持ちあるなら門を叩いてみることをおすすめいたします。善は急げと申します。

茶道は伝統に非ず。ただお茶は伝統の法を学ぶものでもありません。伝統は自己究明の法を伝える形でしかありません。伝統は合理的に体系化されたものです。

茶道とは古に学び今に生かして己を知り、未来へ昇華洗練した形を残す方便であります。

興味を好きに移行させる 前準備の調べ

先に習うとする気持ちをより起こすにはやはり茶道に対して調べて「好きな心」を先に土壌として作る必要があります。また、敷居を越えてこそ一歩進んだ自分を作ってくれます。

茶道という名の畑を先に見つけ、その畑に土を作り、土壌を用意しとくイメージであります。畑を耕すメリットはなんでしょう。それは収穫できたものが食べられたときに「やっていて良かった」とする気持ちが沸き起こります。云々考えるより門に飛び込んでみるのも一興ですよ。

お茶を習うということは自己の究明であり、自らの道を定めるものであります。そのために畑の育て方を学び、多くの収穫物を食べなければなりません。

しかし、畑の育て方が分からず、作物を育てる法を知らねば畑も枯れ、作物も育たず死んでしまいます。食べないと自分の心も死にます。そこでより良き法を知る良き師を探すのにまずは足掛け三年かけるとも言われています。

我の心を導く師とはなれ 我が心を師とはするな

~良きを学び、悪きを知る 悪きを見て、良きを知る~

茶道の世界は一度その社中に入ると他の師に変えること叶わないと聞きます。暗黙の慣習としてそのルールは決まっているとされています。中には最初に指導を仰いだ先生が心の悪い人、意地悪な人、悪口の言う人、お金にうるさい人で「茶道」を嫌いになってしまう人がいるとのお話をネットや人伝に聞き、誠申し訳なく思っています。お詫びいたします。

そして師を変えたい一心でない理由を告げ、別な師のもとに参じて、隠れながらコッソリお茶をしている者もいると聞きます。なんと可哀想に。

心根の悪い師は茶道が本当は好きではないのかもしれませんね。

茶道は禅宗をもとにあります。禅宗は教えてくれる師を変えながら自己の究明に励むとも言われています。そして最後に尊敬できる落ち着く師の場所で腰を据えて学ぶとされています。

茶道も師を変えたければ正面からぶつかり合い去るのがよろしいと私は思っています。そして心根の悪い師には臆せず素直に嫌だと発することが良いと思います。若しくは間接的に伝えてみるのも良いことです。しかしながら、人は脆く弱いところがあります。素直に正面から申し上げること叶わないと推察されます。人は後ろに守ってくれる砦や人いなければ前に進めないと言われます。素直な心に従いたい人を守るために縦組織ではない、横断組織の私たち北茶がおります。駆け込み寺のような感じですね。

弟子も茶道の師につく以上はやはりその師の全てを拝していただく覚悟も必要です。良き師に付けばその方の人格のように育ちます。反対に悪い師に付けばその方の人格に染まります。そのようなことが無いように多くのお茶人と交流して自己を律しなければいけません。良きを学び、悪きを知る。悪きを見て知り、良きものに変換する。この心構えが必要です。

茶道は禅茶一味

茶道は仏法をもとになければなりません。もっと言えば仏道の心をもち運用しなければ廃れます。

仏道仏法に限りません。自己の信じるものを茶道に生かせれば良いのです。

その意を伝えるように南方録には「小座敷の茶の湯は、第一、仏法をもって修業得道する事なり。家居の結構、食事の珍味を薬とするは俗世のことなり。家は漏らぬほど、食事は餓えぬほどにて足る事なり。是仏の教え、茶の本意なり。水を運び薪をとり、湯を沸かし茶をたてて、仏に供え、人にも施し我も飲み、花をたて香をたき、是々仏祖の行のあとを学ぶなり。」

「仏法をもって」とする箇所を「自己究明のため修業得道する事なり」と見ることも可能です。若しくは「自己の信仰する心をもって」でも良いかもしれません。「仏に供え」を「神や聖人」に直すこともできます。

南方録とは利休の言葉として伝わる書ではありますが、利休の時代との矛盾点から現在では利休のものではないとされています。しかし、その茶道の意を伝える書としては多くの専門家も納得できるものとなっています。

門に到る自己の選択 好きこそものの上手 

禅宗の話をいたしますと、入門はとても厳しいものとされています。「習いたいです!」といっても叶わず、身体を門の前に埋めて、頭をずっと下げ、許しが来るまで待ち続けないといけないとされています。そのように考えますと茶道は少し門が緩いともいえます。所謂、俗事のことに成り下がっている面があります。茶道は伝統という縛られた世界だけのものなのかもう一度立ち返る必要があります。

伝統は後世に残し、伝えなければいけないとする使命が暗黙に人に課されます。その使命に殺されてはいるまいか。考えなくてはいけません。

師は本来弟子を選べます。しかし反対に弟子も師を選択できます。

茶道の門の良いところは万人を受け容れる姿勢です。やはりその先に住まうお茶人は後世に語り継がれるほど誇りあるお茶の世界にしなければいけません。

利休の孫の道安は「おもひきや遊びの道の茶の湯たり好かば知らず習うなりとは」と茶道を詠みました。お遊び、趣味、芸道と思い、茶道を習っていてはいつまでも世界を築けず、そのお茶の本質を知ること叶いません。「好かば」を「数奇ば」に直すと面白い姿が見えます。

楽しく学び、好きをもとに真剣に挑むことが大切ということです。好きこそものの上手なれであります。

歴の長さが自己の誇りとなるようなことは戒めなければいけません。また、歴の長さを物差しに偉い、偉くないなどと人を判断するのも控えなければいけません。万人全て貴人であります。

茶道は自己の究明に励む者にはとても優しいものです。言い換えれば「どんなお茶をしたいのか」を定め分かっている者に優しいのです。その者(弟子)のお茶が築き、叶うように師は教え導くからであります。

茶道を習うということは伝統により合理的に体系化された自己を知る法を学ぶことであります。

古に鑑みて、自己を知り、今に生かして、未来で自己を更に昇華させるのです。茶道はその方便の法でしか非ずして、自己のためにまずは成すものであります。そして心が高まった時にお茶を相手に点てることで自己も救われ、相手も救われるのであります。

茶道を習える今に。御礼合掌。

お茶の師を導に畑知る 心を空を育て耕せそして食え 大汗が海なるまでも

佐々木宗芯

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