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茶道の束脩「弟子になるということ」

茶道でよく聞く束脩・入門ってなんだろう。

弟子になるということはどういうことだろうか。

入門・束脩の話は聞くけれどどうしたら良いのか。自分の纏う「弟子」の身分とは何を示すのか。色々と声があると思います。

お茶のお稽古を始める前に必ず必要な儀式があります。

それは自分が師のもとに自らの意志で参じ、入門のしきたり(束脩の儀)を経て、師より門に入るお許しを得なければいけないということです。

束脩とは

では、しきたりの束脩とは何を示す行為なのか。

一 入門の際に師に礼物や金銭を贈り、納め門人になる許しを請うこと。

二 古代中国において弟子・家臣になる時に礼物として干し肉の束を送ること。

と辞典では記載されています。

啐啄の始まり

束脩とは自発的な動機により師に入門の許しを請うために用意する自発的礼物・金銭であり、予めこのような物をこのようにして納めるという決まりはありません。師に当たる側からそれを定め、要求することは本来あってはいけません。弟子になることを自ら決め、教えを乞う者の裁量に任せるべきであります。

自分の入門したい!とする固い意志、考える精一杯の「気持ちがあれば」何でも良かろうかと思われます。

また、何故それを師に納めるのかと申しますと、師に対し弟子自ら「貴方様を師として拝します。教えを師に乞います。そしてお世話になります。これからお受けする御恩のお返しは出来る時行い、必ず自分が師にお尽くしいたします。教えも必ず成就させます。どうかよろしくお願い申し上げます」とする意が含まれています。また、師も願う者の入門を許すということは「一生貴方の面倒を見ましょう」とする意があります。

だからこそ師弟関係は親と子の関係を超越するとも、親子関係と同等であるとも古来より言われます。入門の前段階において師弟の相性や啐啄同時は始まっております。

子が親の所有物ではないように、弟子も師の所有物ではありません。子も弟子もともに主体性のある存在であります。また、弟子を大切でかけがえのない存在として師は見ます。

師は弟子の具合を見定め、個々にあった啄やヒントを与えます。そして師匠の最大の喜びは弟子の成長と自分が教えたものを会得して行う、弟子の臨機応変な働きや創意工夫によって、弟子の道が更に高まり、昇華を遂げることであります。師は常に自分を超えてほしいと弟子に願うものであります。

千利休も育てた弟子に自分を超えることを願っていたエピソードは無数にあります。そのため利休存命の中でも新たな工夫は弟子から生まれ、利休亡き後も更に茶の湯は発展いたしました。

親子の関係を断てないように、弟子になるということは、師を変えられないとする絶対的な決まり事があります。師弟の関係は常に真ん丸で表現され、どこにいようが師弟の流れは続きます。

そのため離れていても礼を前提としたしきたりの中で生きることも必要であります。時折、親に連絡をして報告や安否を知らせ合うようなものであります。

課程を修了したら自動的に卒業する生徒とは違うのです。生徒・先生には組織的な拘束力が働き、先生と生徒の関係は「教え」が前提とした関係が発生しています。先生は教えることを義務とし、生徒は学ぶことを義務とされます。生徒と先生では報酬関係が発生しているため、対等でもあります。しかし、違うのは先生には権威性が組織より教えの対価として与えられており、報酬とセットである点であります。

弟子の心構え

花園大学学長で臨済寺僧堂師家の阿部浩三師は茶道の弟子の心構えをこのように語っておられます。「皆さんは千利休によって完成されたお茶が全てだと思っておられませんか。しかし本当は、自分の先生方がどのように生きて、どのように活躍されているか、されたかを歴史をふまえながら伝統の継承を行わなければならないのではないでしょうか。師として崇める方の、あるいは師であると胸に抱く方のお名前と歴史をしっかりいただけなければ、私たちは継承出来ないだろうと思うのです。お慕い申し上げる方の全てを盗み取るのだ、その方から全てを習うのだという思いが必要なのではないでしょうか」と語っています。

続いてこのようにも話しています。「文化継承は棚からぼたもちのようには受け継ぐことはできません。限りない努力をして、肌から感じ取りいきながら身に着けていくものだと思われます」

絶え間のない努力精進をしてこそ、努力が努力している事実から離れさせてくれるものです。「自分は努力している!」とする気持ちを「これをすることが普通・当たり前なこと!」とする考えに至った時、明らかに光を放ちます。自ら実る兆しが出ているともいえます。そしてゆくゆくは無の境地で事をしているといえます。

茶道の師の下に参じて弟子になるということは、お茶の世界の住人になること、偉大な先人の歩んだ道を自分も同じように足跡を残しつつ、歩けるということであります。そしてフッと後ろを見たときに自分の足跡にも連なる形で後進の者たちがいます。彼らの導になるためにも努力精進でございます。

志深きある青年のお話

最後に私のもとに参じてくれたお弟子の一人のお話をいたします。

二年ほど前、束脩式を迎えるにあたり、以前より知っている一人の青年が頭を丸めて来庵してきました。来庵した皆々緊張した面持ちである中、彼はどこか涼しく凛としており、並大抵ではない入門への覚悟が伺えるものがありました。

彼は普段より陰徳を積める人であり、お茶への志も深い人物であります。今も変わらずお茶の稽古に励んでいます。きっと自分のお茶を成就してくれるだろうと思っております。

頭を丸めた彼の兄弟子であり、昔からの付き合いがある者の話によると余りの良い方面での変わりように「お茶はすごい!」とする気持ちが会うたびに起こるようでございます。すごい!と語る彼もまた、人やお茶を日々大切にして、人を気遣い、三配りを行い、人のために尽くせる人物に大きく成長しているようにも見えます。

お茶もすごいかもしれませんが、一番すごいのは人であります。

皆々に感謝して。御礼合掌。

師の門入りて 茶世願生 日々変化是即ち好日かな

佐々木宗芯

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