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茶道の実践 体用のお話

道具の扱いが未だに難しくわからない。

初心忘れないように気を付けてはいるが道具の扱いが気付くと雑になっている。

何故かわからないけど習いたての時より静かにスムーズに無我で点前ができる。

このような声は数多くあると思います。

お声の解決に繋がるかは存じませんが、今回は茶道における体と用の事、動静などについてお話します。動静体用を知り、実践叶うとお点前に生かされ、心の乖離が無くなると信じています。

体とは動かないものを総じて示しています。心や体の中心点、道具においては釜や水指、水屋なども含まれます。

用とは動いて使うもの、手や足、目、道具では茶杓や棗、茶入れや水屋のふきんなどが用の働きに属しています。

体用どちらも点前などでは欠かせない構成要素であります。一つで二つであり、二つで一つであります。動静体用が一致してこそ三昧の境地に入り、目の前の一会の一期に集中して臨むことが叶います。

技術的に美しく上手くなることばかり考えていることは用のことばかりで表面上の美しさしかないと言わざる負えません。また、失敗するとスポーツのように悔やむ一方です。では、心ばかりに意識が向いてると雑で見ていても良い気分にはならないものが出来上がります。どちらも共通して有しているのは傲慢ということです。自分のことばかり考えるから独りよがりの仕上がりになるのです。そしてその全ては見透かされます。

体(静)と用(動)が一体化して臨むにはどのような形が理想であるか。それは有無体用を心がけて日々を過ごすことしかありません。有無とは手をパチン!と叩くと無の空間から自分が有を生み出します。そして一瞬で無に消えていく。離れているように見えて、結びついて見える有無の世界は一つで二つでありながら、二つで一つであります。独立した個とした存在ながら有も無もなければ世界は成立しません。

体用同一であれば、心を一つにして、無我夢中で無心で静かさを主眼とすることは「体」根本となる部分が真に起こります。そこに、身体や手、目を動かし点前や所作をすると「用」の働きが生まれます。この姿が同一化の一歩であると考えます。

書物の一説から説明を加えると、中庸の文の中に「体と用は、動静の違いはあるが、必ず体(動)が生じて、その後(用)となる。つまり、体と用が別々に二つであるわけではない」と記載されております。また、法華十双権実の注には「体・用については、修行覚道し、悟りの根源を知ることは、体である。修業後に悟りを身に着けた者が、迷いの世界の中で人々のために尽くすことが、用である。例えば、体は大地のようなもので、用は体に帰する。権(方便)は実に(真実)に帰する」と書かれています。利休百人一首にも「一点前点つるうちには 善悪と有無の心わかちをも知る」とあります。意味は一つの手前にすみずみまで注意を払うということは、良きも悪きも関係なく 無心になっているということです。お茶が点ち終えるまでは。

茶杓は茶人の刀と呼ばれるほど大切な道具の一つでありながら、竹の茶杓は元々は使い捨ての一会のための道具でありました。唯一と言っていいほど茶人の手により作られる道具の一種であります。この茶杓は区分上では用(動)でありますが、体(動)無くば成立しません。茶杓の扱いは自分(心)を中心として体と用を一つにして三昧の境地で静かに、呼吸を整え扱い切るのが良いとされています。緊張して手が震えそうなときは茶杓と一体化して呼吸を整えながら静かに扱えばその緊張も緩和されると思います。

体(静)に属する水屋などでよく言われることは「水屋上手は点前上手」と言われます。これは誰にも見えない、お客さんの知らない場所でしっかり自分や道具と向き合い行い、静かな心を整えているからこそこのような言葉が言われるのだと思います。水屋は茶の陰徳を積む場所と表現されるほど茶道において大切な空間であります。そして道具は主を選ぶという言葉もございます。人に限らず多くはお陰様です。

重き物(釜や水指等)は如何にも軽きように扱い、軽き物(茶杓や棗)は重きように扱うのが良いと利休さんも申しております。「点前には 重きを軽く軽きをば重く扱う味を知れ」とあります。しかし、この意味には重きものとは心も含んでいると考えられます。心が緊張して重々しくなりすぎるとその空気はお客さんにも伝わります。軽いとは身体の動作も含まれています。軽く扱いすぎると雑に見え、いかにも軽い印象を与えてしまいます。どちらも過ぎたることは悪しではありますが。

やはり意識を無意識に、不自然を自然にすることが大切なのだと思います。

何かに負けそうな時、喰われそうな時、緊張したときは心の中でパチン!と手を合わせ叩き、どんなことにも望んでみてください。きっと心の中で有るものが生まれています。そして、点前するときにガタガタと緊張してしまうのであれば心の真ん丸の中に茶が有る事を想像して点前する両手のひらに茶と書いて飲み込み、その左右の両手を合わせて臨めば緊張も和らぎ良い点前ができると思います。自分が思い浮かべる茶の心を一として持ち、心を空っぽにして望んでみるのみです。無一物中無尽蔵の心で挑めばこの世の中怖いものなどありません。終えたのち皆が笑顔になっています。

一服のお茶、されど一服茶、亭主も客も同じ一対となり笑顔福福となることを願っています。

皆是笑顔、皆々一服の福

佐々木宗芯

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