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茶道とは

お茶の稽古をしているけれど茶道とはなんだろう。

茶道という言葉を良く聞くけれどわからない。

茶道はただお茶を飲む芸道娯楽みたいなものだよね。

そもそも道の定義がわからない。

このような声が聞こえます。

茶道の意の解に入る前に私なりの「道」の定義をお話しします。

道とは古に学び今に生かして己を知り、未来に洗練した形を残す方便であります。

先達の努力により茶道は世間的にも国際的にも我が国が誇る総合芸術として近年顕著な形で高く国内外から評価されています。そして、日本的な自己超越のプロセスである「道」にも注目が集まっております。

では、本筋の茶道とはなんであろうか。最初に茶道という言葉が世に出たのは八世紀、茶について書かれた初の体系的研究書としても知られる「茶経」を記した陸羽の時代である。彼は当時の人々から「茶聖」と称され彼の行うお茶を人々は茶道と呼んだ。当時のお茶は現代の抹茶等ではなく茶の葉を丸薬上に固めた「団茶」と呼ばれるものです。しかし、この当時からお茶のただの飲用物としての評価ではなくより深いレベル、得道に至る道として認知されておりました。

では日本においての茶道の起こりとはいつであろうか。それは室町時代に活躍した村田珠光が古市播磨に宛てた「心の文」から見て取れます。文中に「此の道は」の表現を茶の湯についてされています。このことから珠光は茶の湯(当時の言葉)は道に昇華できるだけの深く広い精神的要因があったと見ていたのではと捉えることが可能です。また、修行僧が修行の眠気から守るために飲用していたことから当時そのカフェインの覚醒機能は悟りと呼ばれる人格解脱、自己覚醒をするにあたり大いに助けていたと思われます。

茶道の言葉が世間で認知され始め、使用され始めたのは江戸時代初期であります。この時代の書物茶道手習いというタイトルが示す通りです。

利休の孫である千宗旦は歌で茶道について「茶の道は心に伝へ目に伝え 耳に伝えて一筆もなし」と詠みました。この歌を分解していくと有る姿が浮かび上がります。茶道は心に伝える精神的媒介機能としてある姿、目は言葉以上に多くを語るという言葉もあるように目と目で伝えること、人を見て、空間、道具組をみてその思いを目に伝える姿、耳はわかりやすく言葉や釜のシューシューなどの道具から起きる音、このすべてを包括して茶の道の真の意味を解することができるのだと伝えていただいているように感じます。

また、日本的roadの概念「道」には修行稽古の意味も包括しています。この歌を反対に捉えると心目耳この三つを忘れ、除いては茶の道を知ることは不可能であることも暗示しているように感じます。だからこそ一筆の文字で記しても意味はないと伝えられているように思います。ただ、文字もなくば当時の姿を歴史的に想い馳せることは叶いません。また、初代を起点とした「正しい」意味においての継承も不可能であります。人から人への相伝行為には限界がございます。

しかしながら、その継承の正しさは所蔵する書物や近々における先代当主や先生からの口伝などから一定は担保されます。個人のお茶が代々受け継がれる行為には家単位化の未来を意味しています。家単位において人が人を呼び一種の集団化することにより流派のお茶が生まれます。

西洋圏などでは個人にその美意識(芸術)聖徳(宗教)が宿ると考えます。

茶の湯も本来は茶人個人の力量や臨機応変な動き、お茶(茶風)が尊重されておりました。お家の流派形成がされるまでは今よりその個人に敬意や強い尊敬は向けられていました。

石州三百ヶ条では茶の湯に限らず、誰にも負けないほどの得意分野を有する達人の下に入門し、就いて学ぶことの必要性が説かれています。「茶湯は茶巧者の人に習うなりが良きなり」と申しています。

利休の子供で堅の道安と称せられた千道安は道安歌にて「おもひきや遊びの道の茶の湯たり好かば知らず習うなりとは」と詠んでいます。好きの気持ちは大いに上達に繋がります。また、好いてこそお茶の本質が見えるのであるとも解されます。茶道より利休の精神に近いと思われる侘び数寄(好き)や「茶の湯」については改めて別なところでお話しできればと思います。

茶道とは古に学び今に生かして己を知り、未来に洗練した形を残す方便であると考えます。

第一お茶を行う過程で心が高まり深めることで自己覚醒に至る道「お茶から心へ」

第二に心の深まりと自己の高まりにより行うお茶「心からお茶へ」

この二つが合わさり茶道が形成されるように私は感じます。

人の想いがたくさんの一椀を飲み体を通り、有りながらも無くなる。

お茶を飲み体を巡り、心を飲み、此処(体の中)に茶道はあります。

茶道を始めるということは自己を知る事にも相手を知る事にも結び付きます。

自分を知るからこそ相手を知り、相手を知るから自分をもまた知る。分別区別することなく良きも悪きも関係なくお茶を点て続け何処に人は向かうのかそれは自分しか知りえません。先ずは多くの人にお茶を飲みに来たさと呼ばれる法人になるように願います。みんなの法人がお茶になる日まで。

茶を飲み心を飲み全てを飲んでまた人が笑顔也

佐々木宗芯

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