ブログ

茶味と人間味

何のために茶道の稽古をしているのか。

ずっと同じ稽古事ばかりしていて飽きてしまう。

茶道の稽古をしていて、心にフッと思うことがあると思います。

立花大亀老師はお茶の味と人生の味を重ねてこのように申しています。

「濃茶はほろ苦きもの。しかしそれはけっして単にほろ苦いだけではない。その中には言うに言われぬ甘さがある。人生とはほろ苦きもの。しかしほろ苦き人生の中に一抹の甘さが残されている。‥‥ほろ苦き中に、これっぽっちの甘さがある。人生の味とお茶の味、これは相通じるものである。侘びという言葉に、いちばんふさわしい味です。」

とこのようにお茶の味と人生の味について語っています。

茶味を知るということは、即ち自分の人間味というものを知るということでもあるのだと思います。

茶の湯や稽古を通じて茶味を知り、自分自身の人間味というものを深め、高めていく。

この過程を求めようとする気持ちこそが茶道の稽古で求められる大切な姿勢なのではないでしょうか。

では、人間味とは何のことをいうのでしょうか。

それは、人として本来持っている温かみや自分自身の持ち味というものを示します。

お茶がぬるく、冷たくては美味しくありません。

お茶が温かく感じられた時、美味しく感じることができます。

お茶を温かくするには、火相や湯相をととのえることも大切なことではあります。

しかし、それらよりも大切なことは人間としての温かさを持ち合わせてることなのではないでしょうか。

心の温かさがあるから、お客さんに美味しいお茶を点てようと細部まで心配りをする。

日が暑ければ、少しでも涼しくなるように打ち水をしたり、道具に涼感を求めたり、熱すぎないようにお茶の温度をほどよくしたり。

日が寒ければ、少しでも暖かくなるように白湯を出したり、つくばいには人肌程度の水をいれたり、手あぶりを用意したり、手に温もりが伝わるような道具を用意したり、筒茶碗にしたり。などここでは語りきれないほどの心配りをします。

それも、ひとえに「美味しいお茶をあなたに」という温かな心から心配りというものが自ずと生まれてきているのです。

そして、自分自身の持ち味を生かしたお茶というものを叶えていく。

人には、それぞれに個性があったり、クセがあったりします。

また、人には本来の面目というもの、あるべきよう、抗えぬあるがままでしかないものを持ち合わせています。

それを、茶道の稽古や茶の湯を通じて知っていくことが、大切なことなのです。

茶味を知って、人間味を深める。

人間味を深めた先、茶味に生かす。

その心がけで日々の稽古に努めなければ、いたずらに時間が過ぎるだけなのではないでしょうか。

しかし、人間味に完成はありません。

私の祖母も常日頃からこのように申しています。

「一生勉強、日々修業。死してもなお修業。ただ真ん丸の線の終着を目指して、成るがまま」

堀内宗心宗匠は日々のけいこについて、このように申しています。

「薄茶平点前が「人」をつくる。もてなしの中心となる一椀のお茶は、関係のない別のところから運び出されるものではなく、一つの茶室内に主客同座して、亭主自身によってつくられるものでありますし、同座する客のが受けることのできるもてなしであります。さて、この雰囲気をつくり出すものは、「人」でありますから、その「人」はいかにあるべきか、という問題があります。この「人」をつくるのが、実は薄茶の平点前なのであります。」

永遠の生命などありはしません。

日は新たになり、また日に新たなる時間や年々と過ぎいくとき人も花も同じからざる時間なのです。

この移り変わりがやまざる時間の中に生きているということ、そのことが永遠の命の活動をしているということなのです。

人はこの一刹那の中で精一杯に生き尽くせば、一生を満たされて終えることができるのです。

お茶が充分にできたと思っても。同じことを繰り返し、繰り返し行う。これを絶やさずに行えるものを茶人といいますし、真の意味ある稽古なのであります。

「成所作智」という禅の言葉があります。

この「成所作」というものは、字の持つ意味の通り、成る目的があって、人がはじめて動くこと、所作を成してすべてを完結する、後には何も残さず、残すこともないのです。

一つ、一つの所作点前に残すものはなく、ただ成る。その成るというものこそが、お茶を通じた人間味というものであり、目には見えない何ものかを身体や心に蓄積して、深めているということなのであります。

この「成所作」が薄茶の平点前に相通じているのです。

最後に、点前が上手くできなくても、できていたとしても繰り返し、繰り返し忍耐強く同じことをできるものが、最後に実ったものを食べることができます。

こういう言葉もあります。

「一日成さざるものは、一日食らわず」

茶の湯に完成というものはありません。

人間に完成というものはありません。

それでも、只管に同じことを忍耐強く繰り返せる時、自然と心は磨かれており、美しい所作や心が知らず知らずのうちに自分に蓄積されているのです。

また、師匠というものは、口頭のみでお茶を伝えるのではなく、身をもってお茶を伝えていかなければならないと思うのです。

それが、師匠や先生と言われる者の務めではないでしょうか。

合掌。

茶味に知足有り 人間味に知足無し

茶味即ち人間味

人間味成り 茶の弥勒

佐々木宗芯

top