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茶の湯は文化と人の拠り所

茶の湯ってただお茶の作法点前があり、飲むだけの伝統文化だよね。

日本の総合芸術と呼ばれる茶道にはどんな文化性が内包されているの。

近年の日本文化の喪失感があり、悲しい気持ちになります。

茶道の若者離れが激しくてこの先が心配である。

など多くの疑問やお声があると思います。

先に結論から申しますと茶の湯は喫茶文化のみならず、日本文化の総合性を関連連関させた形の文化体系であるといえます。

茶の湯文化に内包されている、美的観点としては日本的所作、お花、審美眼に基づいた道具構成などが主に挙げられます。茶道具に代表される美術品は陶芸、竹細工、指物、ガラス、漆、塗物と多種多様にございます。

会話を通しながらお席では茶人自ら入れる茶花と呼ばれるお花に、掛物はお坊さんや茶人の書いた書に絵、皇室由来や公家の歌色紙を拝見して、風炉や炉で薫かせる白檀、沈香香木や練香薫物などのお香を聞きます。

また、席中では狂歌に詠まれるほど話さない方が良いとされている会話があります。

それは我が仏(狭義においては宗教観、広義の意味において自分の思想やその信仰、自己主張)

隣の宝(人の財産や財力資力の話)

婿舅(悪口になるようなネガティブな家族の話)

天下の軍(政治思想の主張と押し付け)

人の善し悪し(人様の悪口陰口)などを茶席の話題に持ちこむことは御法度とされています。話して熱が入りすぎると一味の友も壊れてしまう可能性があります。

「我が仏 隣の宝 婿舅 天下の軍 人の善悪」以外の日常会話をしながら亭主と客間であらゆる種々に富んだ問答が繰り広げられたりとします。その時その場所、人に合った臨機応変な動きと言葉が必要とされています。

お香の香りが広がっている空間で香を聞きながら書やお花を拝見し、伝統技法で作られたお道具を拝見しながら点てられたお茶をいただく。お茶事では懐石料理と呼ばれる一汁三菜を基本とした質素倹約を本とした粗末ではないが豪華でもない思いの有る手料理の和食も食べます。大まかな流れはこのようであります。時には和歌を詠みながら進行します。

総合性のある美的原理の表現は先に亭主が体現者となります。

しかし、構成要素の皆々は主人公でありますが、「茶の湯」と呼ばれるほどお茶がメインであり主たるものであります。お茶を成すための全ては心の形を間接的に表現するための手段でありますから、目移りするような空間やその形にならないように気を付けなければなりません。

日本文化を愛したドナルド・キーン先生は果てしなく美しい日本というご著書で現代の茶道をお厳しくも書いてはおりますが、「今日、伝統技術のあるものは人望を失いつつあり、またあるものは西洋の風に染まりつつあるとき、茶の湯が立派に生き延びていることは、古き日本の喪失を嘆く者には安らぎを、生きている日本の古いものと新しいものとの比類のない多様性を高く評価する者には喜びを与えるに違いない。」とこのように茶の湯を守り伝える意義について最後に締めております。

茶の湯文化が生き残ることが伝統文化を守ることに繋がり、また、日本文化の最後の砦としても機能するように思います。

茶道を修めることは日本の総合文化を学ぶことにも結び付き、その中でも自分が得意とする分野を見つけ努力精進することがその道の達人になることの一歩であるように感じます。

広く広く求めすぎると大空大海を彷徨するが如く迷子になってしまいます。

深く深くも行き過ぎると宇宙深海の深みのような暗闇で一人になりますが。

世を生きる苦しみに楽しみ、心の苦悩にその悩みを一度外に置き、一旦は忘れて、市中の山居でお茶をとことん楽しむことが真実の自己の覚醒に至り、お茶の法をもって「すべて」の理解に結ばれるのだと思います。そのための拠り所としてみんなの茶の湯があるのです。

人は生まれた時点で既に死んでいます。生まれた段階で死は約束された事柄です。

生まれた、そして滅した。

時は平等に訪れます。だからこそどのように歩むのかが大切なのでしょう。ただひたすらに努力精進することが今においての幸に結び付くのだと思われます。

茶の湯においても生まれたわけでありまして、滅される日は必ず訪れます。それでも残り続ける先が見えるのは人の心を種として、その拠り所としてお茶が不変に存在出来るからであります。

今の茶道が、今のお茶はこうだから若者が入らないのかな?とかどうしたら良いのかという問題は考えずに今に生きて、茶道を成していたら自ずと若者に限らず人は増えます。全体的な問題にするのではなく人個人の問題に移行させ考えた方が成就せし、その人を中心に人が集います。その結果を気付いた時には多くの輪が生まれた、若者が増えた、繁栄しているなと感じられるのではないでしょうか。

日本が世界に誇れる伝統ある総合芸術としての顔は一側面に過ぎず、それらを構成しているのは結局のところ人と人であります。しかしながら、お茶を学ぶことは人個人の実りある豊かな人生の一助として機能するはずです。それが「結局のところは人」に行きつきます。お茶を点て自服を楽しむのも、大切な人や家族と飲むにしろ、自分がいて相手との関係においてそれらが成り立ちます。

茶の湯とは自分の中にいるもう一人との対話、人と人との関係の成立においてのみ機能することから、個としての美的原理の探求やその美的観点、点前や作法の技術力やその美しさよりも方便をもって自分が何を会得するのか、人にどのように心が伝わり、思ってもらえるのかが重要である道の一つと思っております。茶の湯とは人の拠り所です。

北茶が多くの人の和顔愛語の有り、行き交う拠り所として社会に存在出来ることを願っております。

和顔愛語の人と人 茶の湯に結ばれ また笑顔

佐々木宗芯

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