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茶の湯の世界「露地のこと」

露地ってなんだろう。

お茶事に招かれたときさほど意識していない露地だけど、どんな心理に影響を及ぼすのか。

露地にいると心落ち着くな。なぜだろう。

露地と聞くと多くの人は「あぁ茶道の庭みたいなものね」とイメージすることが多いと思います。露地が一定揃った状況がなければ草庵若しくは本物の茶室にはならないと判断する先生もおります。

相手の事情や地域事情を考慮せず判断しようとする本物・偽物の論は置いといて、最も茶人が意識しないといけないことは「心の通り道を露地とし、心の在処は茶室にもち、日々常に道場中に居るかのように」に常に内観と外観を一致させて、内にあるお茶の心得から日々を過ごすことが大切なのではないでしょうか。

露地とは 露地のこと

では、露地とは何のために存在して、どんな意味があるのでしょうか。

露地の「露」はあらわす・あらわれると訓読みします。地とは地に足をつけろと言葉にもあるように心のことで、本来の自己の姿を露にするという意味があるといわれています。

辞典などでは「特に茶道では千利休が茶庭のことを露地とよんだ。山界の火宅を出て露地に坐す。の仏教用語からとった呼称」とあります。

「山界の火宅を出て露地に坐す」山界の火宅とは、煩悩四苦に溢れる現実世界の中のことであります。そこより抜け出て露地に坐して、心の長閑に安らぎ、満ち行くということを意味しています。

法華経から出たとされる故事のことわざとしても「山界の火宅 四衢の露地」とあります。

さらに理解を深めるために法華経の「四衢道中」に触れてみましょう。

以下「四衢道中とは四諦(四つの真理)になぞらえたものである。その四諦観をもって、真理の道を明らかに見ることができ、道が交わり合わさるところを道路のように「四衢」というわけである。もし、真理の道を明らかに見ることができ、見惑(真理に対して迷う心)が無くなったとしても、思惟(思考・分別して迷う心)があるなら、「露地」(本来の自己を露にする状態)とはいえない。もし全ての煩悩がなくなり、心が無我無心の状態なれば、まさしく「露地」ということである」

露地とは外観上のものではなく、心にある自己の善悪を超越した本性自性を露にする通り道であることがわかります。その露地の意味合いを茶道に転用したのが千利休ということになるのではないかと思われます。露地の境地と申しましょうか、その心を茶道に持ち込む、茶事の心得とする。あれやこれやと煩悩思惟を一時でも断ち切る装置として眼で見える露地を扱えば、一時的にその心理状態に持っていくことができます。

しかし、心理学の巨匠のユングはこのように申していたように思います。それは「それ故、ある心理学的事実とは、その反対も真であるときのみ真である」

本音の建て前、表と裏とある異なる心理状態において起こす心理行動・発言は真の意味においての自己の真実とはならないと理解されます。これらは心の不一致、心の解離性、見かけは当てにならないなどと言えます。人は本質的に矛盾・逆説的なものであり、それらの行動発言を引き起こす人の心も自己矛盾に溢れ、逆説的なものであると理解しなければいけません。

お茶の世界を例に分かりやすくいえば表の表情言葉では「素晴らしいです。これは良きでございます」と言いながら、裏で悪く言うことは見かけ倒しといえます。逆も然りです。

道場と露地

また、道場も露地と同じ意味合いにおいて使われます。

摩訶止観には「道場そのまま清浄境界である。糠を取り除いた米のように、煩悩が取り除かれ、本来の自己の姿が顕れたことをいう。このように迷いの心がなくなった状態を「露地」と名付ける」とあります。これは自己の本性が顕にとする意味において露地と道場は同じであることがわかります。

世間一般での技芸習得を基本とする道場の意味を理解するに魚住孝至先生の「道を極めるー日本人の心の歴史」での言葉が先の摩訶止観の意味との連関性があると思います。魚住先生は道を「日本人の思想の奥底にある強固な精神の基盤」「具体的で現実的な技芸の道を追及して身心を変容させる中で真理の一端に触れ得るとする発想」

具体的・現実的な技芸とは世俗を意味し、出家をして俗と離れ修行するのではなく、世俗の中で稽古技芸の追及をして身心を変容させて真理の一端に触れようとする日本人の精神的根幹思想があるのではないかと魚住先生は解いています。

道場の理解をさらに深めるために歩々是道場についてお話いたします。

妙心寺派布教師である故松原泰道師は「禅語百選」で歩々是道場をこのように話しています。「私たちの一歩一歩、言動の一つ一つがみな修行であり、真理のど真ん中で生活している。ことに気づくこと」「今日、ただ今、ここに一生懸命になること」とあります。

気付きの道程

人の意識、無意識での心の改善・変容の気付きプロセスはだいたいこのような図式にあります。

一 気付いていない・見過ごしている

(無意識領域のため何も変わらず改善されず自己の本性を理解しない心理状態のこと。所謂、自分がわからない人、知らない人)

二 気付いている・気付く

(意識が及ぶことで自己の変容・改善に着手する。稽古修行を始める)

三 気になる・気にする・気にしてしまう・過剰に気にする

(気付くことで自己の改善・変容化につながり良き方面に心を誘導できるが、反対に気づきが行き過ぎると心理状態が荒れて、自分や他人に過剰反応を示すようになる。若しくはこれが自己の本性!悟りだ!真理!と行き過ぎる心理状態となる)

四 気にならない・気にしない

(自己が気付き変容・改善したものは自己のものとなり、離れていく。無意識レベルで改善・変容化したものが行動、言動につながる。また、一に戻り同じことを再度繰り返し自己を高めようと努力を始める)

悟りのプロセスといわれる十牛図も似たような道程を示しています。

まさにとどまる所無くして その心を生ず「応無所住而生其心」の通り、心がどこか、どこにも縛られ捉われない(囚われない)心理状態であれば、本来の自己の心がそのまま現出するということになります。

ロドリゲスが「日本教会史」で記したように、茶の湯の実践の場(露地・茶室)は「市中の山居」であります。世俗の中に存在する、人の清浄無垢な心が顕れるものでもあります。また、反対に人ゆえに俗事を運び込まれる場所でもあります。そのようなことが起きないようにやはり、人はお茶の意を意識しなければいけません。

以上のことから露地のことがお伝え出来たら幸いです。

皆々とお茶を飲めることに。御礼合掌。

心の露地掃いて清めて打ち水を草庵坐して日々に務める

佐々木宗芯

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