お茶の先生によく見られる「宗」のつく名前ってなんだろう。
茶名(宗名)とはなんだろう。
俗名とは別の名としてお茶人には「茶名(宗名)」がついています。
茶名とは字の如く、お茶の世界の住人としての名前でもあるのです。
では、その「茶名」とは何のことをあらわし、茶人たちの法体を証明するのかをお話いたします。
辞典から見る茶名(宗名)とは
辞典などでは
一 茶の湯で、極意を皆伝された茶人に付ける名前。村田珠光の世嗣(よつぎ)村田宗珠が大徳寺の名禅から「宗」の一字をもらって付けて以来、茶道家元から指南を許されると「宗」の字を上に付ける。
二 極意を皆伝された茶人に付ける名前。古くは師匠の一字名を与えられたが、村田宗珠が参禅の師である大徳寺の名禅から「宗」の一字を授けられて以来、それを上に用い、下の一字を師匠からもらうのが習いとなった。
三 茶道で、家元より授けられる名。
四 人間にとって,すべての時間は一期一会であろうが,日々くりかえされる習慣的な生活の世界とは別に,あえて茶会を一期一会ととらえようとするその背景には,茶会が日常生活を離れた別世界における時間と空間の共同体験であるとする意識がある。つまり,茶人が茶名と呼ばれる本名とは別の名を名のるのも,日常生活の身分や職業を離れた別の人格として交わりを結ぶためにほかならない。茶道における名が,かつては大徳寺系の法諱であったように,4時間ほどの茶会の時間だけは遁世した在家の禅者として過ごそうという意識があったであろう。
このように辞典などでは「茶名」を定義しています。
ここで共通している意味合いを直接、逆説的に見てみた場合。
一 茶の湯の極意を皆伝・会得した者。
これから茶の湯の世界で生きる、茶の極意を会得しようと発心を定めた者。
二 自らの修行稽古の具合により師や家元より授かる俗名とは別の名前。
許された茶名をもってこれからは茶人として、茶世界を歩むことを求められる者。
三 半僧半俗の身になる者。
在家の居士のような心がけを持ち、茶を修行する者。
となるのではないかと思います。
人の持つ変身願望が号には存在する
古来より続く究極的な問いとして「自分とは何者か、自分自身とはなにか」とする問いかけがあります。
人には日常の自分とは異なる立派な自分になりたいとする変身願望があります。
また、現実社会の自分と理想とする自分の不一致が生じたときに人は心の解離が発生してしまいます。
一致させるにはやはり、自己を鑑みて、努力精進に励み、現実像と理想像を線で結ぶ必要があります。
自分像からの解放ともいえます。
心理学的な心の調え方でいえば、自分の日常の一部分に非日常的空間を作り出し、その時間を思いっきり過ごすこと、非日常を体現体験することで心が調うと言われています。
茶の湯の世界でみた場合、それは非日常空間への転生により生ずる日常の追われる自分の心からの解放、茶の湯世界の体感体現による自己の変身や同一化現象にともなう心の調和や安定一致とも言えそうでございます。
これらの働きの根底に存在するのは日常の固定化された自分を脱ぎ去りたいとする切実な人々の思いがあります。
しかしながら、大切なのは有無とする世界の理を享け入れ、心を空にし、日常非日常を同一に、そして全てに対する思いや考えを捨て去り、まるく、心一つ無ー無ーとして、現成受用するということではないでしょうか。
号はこれらの導となり助けるものであり、号を得られたからと魔法のように即に変身するわけではありません。
では、茶の湯の号は何を意味するのでしょうか。
茶の湯の号「宗名・茶名」
「茶名」は茶の湯を学び、一定の修業を積み経たのちに師より許され、茶道家元から茶の湯の号(茶名)として授けられるのが慣習として成立しています。
千利休(宗易)を初代にもつ三千家では茶の湯の号の必ず上に「宗」の一字を二文字より成り立つ「茶名」を門弟に与えることになっています。そのため茶名のことを宗名とも呼ばれたりいたします。
茶名・宗名ともに同じ意味合いになりますが、「宗名」は主に表千家、「茶名」を裏千家で使い分けが見られます。
表千家では「宗名・茶名」の相伝(免状)なるものは存在せず、茶の湯の師より許されることによりその茶の湯の号を家元から与えられる仕組みとなっています。後にお話しする十徳も同様の流れだと伝わります。この表千家の流れの根幹にあると思われる思想は禅宗にあります。禅宗の師弟間のやり取りであります。「宗名」と「僧名」は同じ読みにもなりますね。
私は詳しくは存じておりませんが、伝え聞くところによると、裏千家では「茶名」免状を許されることにより茶の湯の号を名乗ることができるようでございます。
茶の湯の号 名乗る意味とは
では、なぜ茶の湯の世界では実名を使わず、仮の名である茶の湯の号(茶名・宗名)を使うのでしょうか。
これはお茶の世界だけの問題ではなく、日本の様々な文化性の中にある号の問題と同じように、実名を使わずにその世界でしか通用しない仮の名を使うことが約束事の一つであるようでございます。
あくまでも実名を使う世界、即ち世俗日常の世界から離れた「脱俗の世界にいる・今ある」ということを号により表現していることを示しています。
三千家家元が代々「宗」の字を受け継いでいるのも、大徳寺法諱である「宗名」を一字継いでいるためであります。
お茶の世界は「茶味、禅味同じたるところ」とあるように茶禅の世界であります。
そのため茶と縁深い大徳寺は今でも「茶の大徳」と呼ばれています。
茶の湯は禅と同じく、禅もまた茶の湯とともに発展してきた歴史があります。一つであり、二つで一つともいえそうです。
大徳寺法諱を示すものとして「宗」若しくは「紹」の一字を入れます。
有名な人物としてあがる一休さんこと一休宗純、春屋宗園、古渓宗陳、つけものたくあんで有名な沢庵宗彭。このように大徳寺の法諱をもつことを「宗」名により示しています。
あるいは数少ないが、竹野紹鴎、藪内紹智などの「紹」の名も生れています。
お茶と縁深い人物ばかりでありますね。
つまり「宗」の一字をもつ「茶名」は、俗人ではなく大徳寺の僧侶がもつ法諱の如く大徳寺で得度した居士である証明でもあります。
半ば僧侶として、半ば俗人として存在する、半僧半俗の茶人の在り方がこの「茶名」には表現されています。
また、根底に禅とともお茶が生きる・あることが望ましいということであります。
お茶人は自らの固い意思により「茶名」を名乗る以上、脱俗の人であることを自覚して、茶禅僧のような心がけが必要ということになります。
お茶人に脱俗である人の自覚を促すうえでも、俗名を排し、こうした茶の湯の号を法諱になぞらえて称させる意味があるのです。
お茶名には俗世の身分にとらわれない法体として意味があり、この法体もつ自分を茶名で表現したのだと考えられます。
このようにして茶の湯は世俗との一線を常に画してきたのであります。
茶は菩薩道
お茶名をもつお茶人は永くに受け継がれてきた禅の法諱の線上にいるということを自覚しなければいけません。
そして、茶事、茶会だけではなく、日常世俗の上でも、茶禅の心やお茶の精神を生かすなどの心の働きを常に持っていることが望ましいといえます。
茶の湯は菩薩道でもあります。
菩薩様は世俗に身をおかれ、衆生を救おうと自らを励み、そして皆のお手本となるように日々を心がけ生きる者です。お茶を成すことは即ち菩薩の道であるのです。
謂わば菩薩は身を半分俗世に置かれ、また半分を聖におかれる方ともいえます。言葉で言えば「俗聖」ともいえます。
人は一つの立派な心がけを持つことですぐに「菩薩」となります。
そして「菩薩は菩薩をまた生む」とする言葉にもあるように良い心がけは人から人へと続きます。
そのためには、やはり持続させること、それらが「当たり前」に成すことであります。
一度茶の発心を生み出した以上は萬里一條鐵。
茶名をもつ菩薩様に溢れる世に感謝をして。御礼合掌。
禅茶一味 発心菩薩 皆是茶人 皆々茶福
佐々木宗芯