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茶の湯の世界「寂びとは」

侘びと一緒に聞く「寂び」とは何のことでしょうか。

「寂びる」とは?

侘びと一緒に尋ねられる質問に「寂び」という言葉があります。二つ合わせて「侘び寂び」ともいわれ、多用される向きもございます。

先に申し上げると、侘びも寂も表裏一体であり、二つは一つで一つで二つであると考えます。

辞典から見る「寂び」とは

一 古びて味わいのあること。枯れた渋い趣。

二 閑寂枯淡の趣。

三 連歌・俳諧、特に、蕉風俳諧で重んじられた理念。中世の幽玄・わびの美意識にたち、もの静かで落ち着いた奥ゆかしい風情が、洗練されて自然と外ににおい出たもの。閑寂さが芸術化された句の情調。

寂(じゃく)と読むと。

一 ひっそりと静かなさま。さびしいさま。

となります。

この辞典の定義を簡単に申せば寂びとは「もの寂びたるもの」となります。

ものが枯れいくもの寂しさやその移ろいや幽玄性、無常観です。

いざ鎌倉 佐野源左衛門常世のさび心

いざ鎌倉で有名な寂びたるエピソードがあります。

それは、佐野源左衛門常世という武士のお話であります。

佐野源左衛門は貧乏な生活をものともせず、たとえ身が家が痩せて貧しくとも愛馬の一頭を飼い、見た目さびたりとも長刀を持ち、いざ鎌倉の大事の時には一番に馳せ参ずる気構えを持っていた。

つまり、見姿は寂びても、心まで寂びさせず、中身を磨きに磨けとする気概、気骨は持っているということであります。

この姿こそさびの本質を突いているエピソードになるのではないかと思います。

寂は意識的に常日頃弁え生きることが可能な一つの精神でもあります。

茶の湯の世界で見た場合、見た目は貧しくとも内に秘める茶の湯が好きという気持ちや修行稽古に対する熱き想い、心根の良さは自身を輝かせられます。

そして、名物・名品でなくとも、内に包蔵されているものの輝きは茶人の手により現出します。

どんな道具も方便であり内包する美を有する友で用いる茶人により生き、内に有る真が顕れます。

道具の組み合わせ一つ取っても、歴史経緯や美的、学問的「侘」から組み合わせては、ただの人の真似であり表面上のものでしかありません。例えば裕福な者が侘びだと言い美的な「侘」たる道具を用い、その価値は美術館級の高値の物の場合、それはただの「寂」でしかありません。

さび道具を侘び道具と言い放ち、私は侘び茶人と称する向きには頭をかしげてしまいます。

Disney「美女と野獣」に見る内なる美しさ

ある国の見た目麗しい王子様が国中の美しい者たちを集めて舞踏会を開催します。そこに見た目醜い老婆が一晩だけ泊めてほしいと一輪の薔薇を差し出して王子に懇願しました。王子は鼻で笑い「お前のような醜い者は泊めぬ!」と言いました。すると老婆はみるみる美しい魔女に変わり、王子は許してほしいと謝りましたが聞き入れられず、王子と使用人たちに魔法をかけました。魔女は王子に対し「お前は真の美しさ、真実の愛を知らねば、一生野獣のまま過ごすことになる。薔薇がすべて落ちきる前に野獣のお前を愛してくれる人を探すのだ」と言いました。

野獣は心美しいベルと出会い真実の愛と美しさを知ります。醜い野獣の見た目であっても内面の美しさにより、人は愛してくれる。見た目では見つからない愛と内に宿る美しさの真実を知るお話でもあります。

寂びのお話と結びつきを感じたので記しました。

寂びから生まれる円満の心 「家は漏らぬほど、食は飢えぬほど」

千利休のいわれた「家は漏らぬほど、食は飢えぬほど」

家が濡れない中には敬い合うやり取りがあり、尊き法語禅語の掛物があり、有り合わせの道具や食には心満たされます。

懐石の意味は坊さんが修行での飢えをしのぐために、温めた石を懐に入れたことから始まります。決して懐石とは腹一杯なるまで食するものではないことがわかります。食は飢えぬほど、六分七分の腹でこそ、お茶の美味しさにも気付けるものであります。

竹野紹鴎は藤原定家の歌を引用してわび茶の意も話しています。

「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」

浦の苫屋の秋の夕暮れは寂しさを彷彿させるものであります。しかしながら、その寂しい境地を見るには花盛りや紅葉も知らねばわかるまいとする意図もこの歌にはあるのではないでしょうか。

老いの境地ともいわれる歌であります。

千利休はわび茶の意を藤原家隆の歌より引用しました。

「花をのみ待つらん人に山里の 雪間の草の春を見せばや」

先の定家の歌と合わせみた場合、訪れる春に期待する雪間に覗かせる草花のごとく、明日には雪が解け、絢爛な花を咲かせるぞ!とする心の準備もなくてはなりません。

これはワクワクするような若き心を表しているともいわれています。

いくら、侘び茶人といえども、今より生まれ、輝くような明日の気持ちも必要ということであります。

足るを知るには足らぬを知る自分もいなくてはなりません。

身一つの本来無一物は中に無尽蔵の心を包蔵しています。それが寂びの源流でもあるのです。この働きが侘びの心を育ませる要因ともなります。

侘びも寂も表裏一体であり、二つは一つで一つで二つであります。

礼をもって「和」と成し、和からは「敬」を生ませ、敬から本なる「清」を育み、因果の「寂」は侘びの境地へと至る。

円満な日々に感謝して。御礼合掌。

円に満ち 心に一物一輪 無尽蔵 身はいつか消えゆく寂無也

佐々木宗芯

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