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茶の数寄と数奇 すきということ

数寄と数奇の違いはなに。

好み道具というけど、その好きとは何を示すの。

数寄者と数奇者と何が違うの。

茶道の稽古を行っている過程、書物などから勉強していたらきっと耳にする「すき」という言葉。

この「すき」には同じ意味のようで、異なる意味が多く内包されています。

では、先に「数寄(好き)」の意味について記します。

好きと同語源であり、風流や風雅に心を寄せることを示し、数が寄るとする字の表す通り、自分の好きものがまとまった形になった姿とも言えます。

者がつくと風流人や茶の湯が好き趣味とし行う者、自分の好み物を多く集める者となります。明治の財界人も数寄者と当時から今でも呼ばれ続けています。コレクター兼美の体現者とも言えます。

風流とは煌びやかなこと、華美な要素に主とした意味があります。簡素や清貧とは対極であります。対極でも根は同じ要素で構成されてもいますが。

この好き(数寄)という文字には本来より、自分の主観論的要素により成立します。例えば好み道具を見出すのも自分の好きとする主観的美意識を無対象から有対象物の創作により世に体現するためであります。好きには対象となるものが存在して、その対象物に対する感情的な好きとする表現は成立していきます。物好み、色好みや人の好みも十人十色のように異なるようにあります。自分の好きとする対象物が必ずしも万人が好むわけではありません。また、美意識も人により異なるように、全てに承認手続きが取られるわけでもありません。しかし、自分が好みとしたものに他人からの同調意識を欲するのも人の心理的要素として持ち合わせているため、一定の承認欲求が働きます。

また、人も権威を感じる人が良い(好き)としたものには無条件での服従行為を見せます。その権威ある人が好きというのだから従わなければならぬとする無条件的受け入れ、服従への条件反射が見受けられます。

人は権威ある者の言った言葉は無条件で正しいと見なします。学者が言った意見やメディアの意見は無意識レベルで調べずに受け入れていることのほうが多いと思います。

数寄には好きとする性質ももちあわせつつ、数の寄りも見せます。数好みとするものであります。数の寄りは一種の体系化への道筋を表現していきます。

好きには何が好きというように好きな感情を向ける対象、無対象がいます。対象となるものは物体として認識可能な人や物など、物体としての認識は不可能だが、想像主体として認識可能な無対象の心や無形物などであります。

好きの理解でいきますと、茶の湯が好きで趣味で行う者も数寄者となることも納得できます。

では、同じ言葉にも見える「数奇」は何を示しているのでしょうか。

この言葉は数寄(好き)と同語源であり、その数寄の当て字とも言われていますが、原点を廻ると違った顔を覗かせます。

史記、李将軍伝に数奇の文字が出ています。「李広、数奇を考える」の注に「服虔いわく、事をなすに、数を揃えず」また、李広伝にも同じように「片われにして、相揃わず」とあります。

この出典から見ていくと、奇数を意味しており、相揃わない数を、所謂片われが合致しないものを示す言葉であると思われます。

物が足らず揃わずとも嘆かず、世俗意識に同調するわけでもなく、集団心理により発生する権威への服従も行わず、多く揃いすぎるのも好まずに、思いのままにならないことも楽しんでしまう者を数奇者ともいえます。

数寄者を分類していくと侘び数寄とする言葉もあります。この言葉の数寄よりも適当と思われる言葉に数奇があります。

侘び数「寄」とする言葉にはこちらの字「奇」を当てた方が以上の意味からは良きに思います。侘び数奇となります。

奇をてらうことなく静かに茶の湯を純粋に好きとし、偶も奇も同体にして楽しむ。偶然を必然と置き換え、必然をまた、偶然に置き換えことの同道に励む。廻る循環に背かず、流れるままに自然不自然と見ず、不足を知足に、足らぬ事をまた知り、足りていることを知る。このような意識を持っているものが侘び数奇者と以上の理解から導き出せます。

よく茶人たるもの審美眼、茶の湯で用いるべきか否かを知る、見分ける眼力が必要である。好み物を作ってこそ一人前と称する向きがございます。

しかしながら、先の「数奇」の意味に解してきますと「物の片割れであって、揃わず、足らない」これは世間的に言われる清貧を嘆かず不完全なものも受け入れ楽しみ、貪欲の心を起こさせないとする戒め、侘びしさの考えに近い気がいたします。

人の欲は無限であります。一から二に求めた心あれば次は三と次に四と果てしなく続き、そして数の寄る事不可能な無限数まで行きついてしまいます。欲の波に惑わされ良く分からない島に漂流したものです。漂流したこの時に欲の怖さを知っても時すでに遅しといえます。

年を追うごとに欲も薄まりますが、それは自己の死の数を身をもって時が経ちどんどん知っていくからであります。

欲望の限りを尽くした一生だと最後の日に集めた数の虚しさに襲われます。

時の概念を操り、時を早めるのも遅めいるのも人の所業の一つであります。

人の知る時期は十人十色であります故、自分に多く足らぬ事を知ることも、後に足りていたことを知ることに結び付きます。人は身をもってしか分かりません。充足した自分、足りていた自分に気づかされる要因に時や人があるのか、方や自分の内観から戒めを湧き起こし、充足した日々を送るのか。選ぶのは自己しかいません。

口頭を並べどうのこうのと申し上げるより、一心に自己究明に励み、内観外観を達観化する術を知るのも必要であります。自己を知りて、また相手を知るであります。

このように申し上げると誤解を招きそうではありますが、自己究明に走る侘び数奇は自分を好きでいること、自分相手を知りたいとする気持ちなく成立しない気もいたします。心の充足を他ではなく内により生じさせることからも伺えます。外の物や人にその充足を求めない以上、内から充足を湧き起こさせるにはやはり自分を好きで満たすことから始まります。内にいる主人公との一体化であります。そのため外から批判されようがお構いなく、心を揺るがされることもなく過ごせるのだと思います。

無駄をそぎ落としていく作業を絶え間なく行う者でもあります。

そこに外からの何かに揺るがされるようでは達成の難しいものでありますが。

茶の湯を行うには自己と相手との関係の成立が要となります。そのため関係の構築のため、人に何かをもてなそうとするには自己の身の丈に合ったものを知る必要があります。もてなしを過ぎたら、相手は次も期待します。次に期待通りではなかったら離れていきます。だからといって基本華美さを好む人に貧しきものを常に提供してもその貧乏くささに嫌気が生まれ、離れていきます。人は難しいのです。

だからこそ自分を知り、相手の心や好みを知ろうとする。それが侘びの体現には必要であります。

侘びの宗旦と言われた千宗旦はある日、貴人が庵を尋ねられお茶の所望を受けた、そこで草庵に通し、常の通りにお茶を点てていると、その貴人は「貴人には貴人にたいする作法点前がなかったか」と宗旦に尋ねました。宗旦は「存じております。しかし、貴方様はわざわざ粗末な私を尋ねられ、お茶を所望されました。そのため私はこのように常の通りにお迎えしました。気に入らなければ広間にてご用意しております」と貴人に伝え、大喜びしてお茶を草の茶で飲んだと伝えられるエピソードがあります。相手の好みや心を知り、そして万全を期して別でもお迎えできるようにしていた偉大な侘び茶人であります。

そのため侘び好きにも人や相手が好きでいることが基本条件のように感じます。

数奇者と数寄者との好きの違いは何を一番に念頭に置いて、好きとするかであります。茶の湯や構成物を好きとするのか、人や自分を好きとするのかの違いによりその働きには差異が生まれます。

その点から考えるとどちらも好き者(お茶がすき!)であります。

このように同じでもあり、違う数寄と数奇でありますが、どちらが良く正しいとするものでもありません。自分の選択した身の丈の伸び具合により異なるだけであります。要は何でもって行うお茶が楽しいかと見る違いでしかありません。華美は華美さを招き、侘びは侘しさを招き。招く主体者は自分であります。同じ者は同じく集い、異なる者でも受け入れる。それが茶の湯でもあります。

好き者同士は互いに精錬した雅な茶文化を築いた仲間であります。そこに優劣などございません。

あるのは人の心であります。人からお茶へお茶から人へ。その絶え間なく行われた錦上に私たちは存在しております。有難いことです。

お茶が好きとするお心、お気持ちがあるお茶人の貴方も臆せずにお茶事を行ってくださいませ。その風を何かと言う者から守り、垣根超えた交流の場を私たち北茶は体現していきます。縦横ではなく、〇の結びをもって。

茶好き 人好き 真ん丸廻る 果ての結

佐々木宗芯

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