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結び合う愛とは

「たつなみもたたぬもおなじ水なれば 人もほとけになりやすきかな」 一休宗純

さて、私たち人がよく言葉にする「愛」という言葉や「愛」を原動力とした、好きとする感情の言霊とは何のことを言うのでしょうか。

人の体は個とした存在のうえ、成り立ち、それらは他とは合わさらない分離したものであります。いわゆる、独立したものとして、この世に成立しております。

身体と同じく独立している存在に感情や記憶にもとづいて発生する心があります。

それらは精神的世界観であったり、客観的な事実により構成された世界、あるいは文化やカール・ポパーのいう第三世界というものなどを作り出したりします。

しかしながら、身体的独立とは異なり、人の心には個々人に宿る、異なる別の心、あるいは別の世界観ともいえるものが、ともに存在しています。

例えば、親が子を想うときや恋人が恋人を想うときに現れます。もっと言えば、親○=◎=子○や恋人○=◎=恋人○のような二者間の接続部において、異なる心が結びつき合い、世界を作り、もしくは共有化し、想い合いというものが発生します。

二者間に介在し、共有する心(世界◎)が互いの異なる心を結びつき合わせ、知り合うものを育ませ、思いや共同化、分かり合える、理解というものを作り上げていきます。

これら結びが愛という心の形を創造します。

このような言葉があります。

「何も知らない者は何も愛せない。何も理解できない者は何も理解できない。何も理解できない者は生きている価値はない。だが、理解できるものは愛し、気付き、見る。ある物に、より多くの知が備わっていれば、それだけ愛は大きくなる。すべての果実は苺と同時期に実ると思い込んでいる者は葡萄について何一つ知らない」

スイスのパラケルススの言葉です。

この言葉には少し足りないものがあります。それは愛にもとづく行動というものです。

私たちは「愛そのもの」を確認することはできません。そのため、愛する者の行動により確認するほかないのです。

では、愛のある行動とは何でしょうか。それは、二者間の中心に存在する心において理解された事柄から導き出される、思いやりを外に向けて出すということです。

行動のみならず、言葉も同様です。

相手と自分は異なります。独りよがりの愛は空虚なものです。だからこそ、年月をかけて知り、理解できたものをもってして、行動や言葉を紡いでいきます。

エーリッヒ・フロムは愛についてこのように申しています。

「未熟な愛は自分が愛されていると理解できた時に人を愛す」

「成熟した愛は人を愛するから、自分もまた愛されると理解する」

以上、簡単に愛について論じることはできませんが、さらりと「愛」について記しました。

一仏往来 水の泡 引くも引かれるも浮世かな

佐々木宗芯

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