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稽古のたいせつさ

昨日は「茶の湯と香の親子教室」がありました。

親と子で初めての割稽古、緊張した空気と戸惑いが見受けられました。

子供たちの中には、袱紗を上手く扱えず、泣いてしまった女の子もいたようですが、どんな物事も上手く扱ってやろう、誰よりも上手くと。心してしまうと楽しさよりも、他と自らを分ける気持ちが先行してしまい、緊張苦しく、時に泣いてしまうものです。

最初はできなくて当然です。かの利休さんもはじめはできなかったのです。

しかし、思わず泣いてしまうということは、真剣で稽古に臨んでいる証明でもあります。

フィギュアスケートでも、幼き頃、はじめ上手く出来ずに泣いてしまった、あの小さな女の子が、世界を魅力するに至り、美しさを世に表したように。泣いてしまうほどの、負けん気は必ず、良い方に成就させてくれるものです。

その姿を見せてくれたこと、ありがたいことです。

では、成就させるにはどのように励めばよろしいのかをお話します。

利休さんをはじめ、お茶人は皆「稽古・修業」を経て、自らを形作って参りました。

表千家の如心斎は所作について、このように申しています。

茶の点前、初めはいかにも静かに大手やかに仕習うべし

次第に功をつみぬれば、ちょうどよいほどに成るものなり

上手ぶるは諸芸ともによろしからずとかや、茶の稽古は、四角なる物の、次第次第に丸くなる道理

工夫あるべしとぞ(『茶話抄』)

何事にも道筋というものがあります。

一つ、一つ、繰り返し稽古するからこそ、洗練した心や所作は身につくというものです。

何も訓練、練習せずに、フィギュアスケートで四回転ジャンプ、エレベストの頂に行けるわけではないように、お茶にはお茶の「心の道」があります。

ジャンプする、踏破するに技だけがものを言わない様にです。心も備わってこそ、落ち着いた自分で事を成すことが叶います。

また、お茶は点前や所作の上手い下手という世俗的な考えは持ち合わせておりません。

如何にして「お茶になるか」もっと言えば「お茶を点てられるのか」を追求するに尽きるからであります。

稽古とは、古を稽えるとも言われています。

言葉の通り、古を顧みて、自らを省みるともなります。

自分自身という存在を見直して、本来、持っている自分を覚ます。

己はどこにいるのか、悪いところはどこかを探し、謙虚に反省し、自らの行為と心を整え、正しくしていく。それが稽古の本懐でもあります。

子供たちに願うのは、所作の上手さを目指すのではなく、心の上手きを目指してほしいと願うばかりです。

さて、少々、話は変わります。

あなたと私は何が違うのか。

見ている方でドキリとした方もおられると思います。

子供たちの話とて、あれやこれやと考え、見てはいなかったでしょうか。

天と地 生と死 良と否 男と女

この世に人として生まれ落ちた時点で、魂を分けられるかの如く、一つであったものを、二つに分けられます。そして、自と他を区別分別して考えることを、是として歩まされます。

人間が苦しさから逃れようとする理由は、一つであったものを、この世の大きな力により、分けられた苦しみを知っているからであります。

それは、思い出すことも叶わないほど、痛く苦しいものであります。

その、痛さや苦しみを知っているから、逃れようと必死なのです。

その行動は、死よりも生を良しとするように、否より天の良を求めるように。自らにとって、良き方向に行こうとします。

しかし、二つに分けられた世界をどのようにして、扱いきり、上手く生きていくのかを、考えることもできるのが、人間であります。

そして、皆目指しているところは、同じです。

恋をすれば、恋に励めばよろしい。愛することは、「信じ愛する」以外何物でもないように。

人の持っている、心の美しさとは「美しい」と同時に「汚い」ものでもある。

泥を被らねば、進まないことだってある。

一人の人間として、人として、歩めばよろしい。

恐れるもの、苦しいものはこの世にはない。

それらを作り出しているのは、自分なのだから。

あなたは一人ではありません。「私」がいます。

何があっても、大切にしなければいけない人は、きっとあなたが一番知っています。

大切を大切に育める世に。御礼合掌。

世に一二三とこころあり

もとみれば ここに心一つなり

心にこころ空けてみよ

佐々木宗芯

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