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礼とは

礼は大切!でもそもそも礼って何を示し、誰にする行為なの。

礼が有る、無い、マナーの有る、無いと分けているけど誰がそれを決めているの。

茶室に席入りの際、道場礼をする意味、掛物に礼をする意味、花にしない理由は何だろう。

お茶の礼ってどこか過剰に感じるな。

などの声が少なからず存在します。

礼とは何であろうかという問題は世界中の古今においても問われ続け、形を変化させながら私たちの現在まで残り続けています。

では「礼」の問いを茶道に求めお話いたします。

手前ども北茶の名誉会長を務め、私の祖母でもある宗弘師匠は対談取材の記事においてこのように礼とは何かを話してくれました。礼とは相手を敬い、思いやる、そして尊ぶそういうことではないかと前置きをしたうえでこう続けました「例えば御人は見えないはずのお掛物にその人々が居られると思い、頭を下げる。それは書かれた方やその教えを世に現出させた古人を尊ぶためであります。お花には心で礼をする。人のために命続く限り綺麗に咲いて飾らせていただくのだから。」包括して「すべてに感謝すること。それが礼ではないかと思います。」と取材に答えていました。

「すべて」はすべてであります。過去も全てにして今も全て未来も全てにしてまた人も全て。

自分が今この服を着て、食べ物を食べ、水を飲み、生きているのもすべては人や自然物の大恩あるお蔭様であります。この有り難さに人は気づいているなら礼なくして如何生きましょうか。否に生きられるはずもありません。

茶室において生きとしものは人と花と炭であります。

自分のためにしてくれた行為や思いには相手に感謝するという極々普通の真理。自分のために命を削り刻々迫る時を捨ててくれる人の有り難さ。

過剰に聞こえながらも人はいつ死を迎えるのかわかりません。明日かも明後日かも。赤子のままかも、少年かな青年の時かな、中年の時に?高齢になって大往生かな。自分には人様の命の蝋燭はわかりませんが気付けるのは自分だけです。だからこそ生きている内くらいは同じく生きている人に真心から感謝して過ごしたいものです。

自分のためでも人のためでも無く、先を生きる概念も知らずに刻々迫る死をも感じずに精一杯「今」を生きる花に心を寄せて、自分のためにありがとうとする慈しみの心を湧き起こさせる人の真心。花はすべてを語ってくれています。すべてとは何かを花に聞いてみたら答えてくれるかも知れませんね。

黒い内はかたく、火が付き燃え始めては赤くなり、やがてどんどん白く朽ちていきその一生を終える炭。個としての形はないが多くの灰と同体となり確かに存在する炭の生命の欠片たる灰。何か炭が人の一生のように感じるのは私だけでしょうか。若きうちは芯も心もかたく、火が付けば熱も入り赤く赤く努力精進に励み、時過ぎてどんどんと白髪となり老いた姿になっていく、しかし、その思いや教えは人や家族に残り続ける。

少し物語の話をします。

ハリーポッターのダンブルドア先生はこのようにハリーに話しました。「年寄りの方が知恵は多いが、価値は少ない」

知恵は火種のようなものであり、それを知恵ある年寄りが伝え伝えるからこそ若い者は学び、また強く燃える火を生み出す。火は次々と若者同士で共有していきます。ハリーポッターの世界でも若者が闇に立ち向かいますね。ダンブルドア先生が多くの生徒から尊敬されていたからこそ火の受け継ぎが完了したのだと思います。

ここで大切なのは誰もがその立場になれるわけではないということです。人から尊敬されるだけの心と知恵無くば成立しない可能性がございます。厳しく言ってしまいますが、老いることなら誰もができます。時間は人の唯一といっていいほど平等が保障されたものだからです。限られた時間の中、努力精進に努めたいものです。

だからこそ若きうちに今に努め力をつけていくことが良きことであると説かれるのでしょう。そして、自己が凝り固まった人格に陥らないようになるためにも必要です。

価値に関しても知恵こそ価値でありますが、未来を作るには身体がもたないとする見解だからこそ、限られた時間の値段、所謂価値は少ないとハリーポッターにダンブルドア先生は話したのだと思います。

炭は自分のために限られた命を削り、お茶の時間の中で燃えてくれます。良き音は奏、こちこちカチカチと有難いことです。

堀内宗心宗匠は侘び茶の湯三原則のうち、「礼儀の厚きを本とする」ことを三原則の一つにあげています。茶の湯社会を正しく、秩序を保って持続させるには茶人間に礼を厚くするということ。さらに茶人社会が健全であるためには、その構成員がそれぞれ立派であることが必要であると説かれました。

表では良きにございましたなどと礼を尽くしながら、裏では悪く言い礼を無きことにしてしまうことは誠に残念であります。表裏の乖離が続いてしまう精神状態では物事を正しく見つめること叶いません。表裏一体と申しますように、表裏を同体化させることが立派な心を生む始まりとなりそうです。

一見厚くるしい茶道の礼には人の思いが多く内包されています。

なぜ頂戴しますと手をつき礼をしながら、再度お茶を飲むとき恭しくお茶碗を上げ礼して飲むのか。それは点ててくれた人の思いに、お茶を飲めることに、神仏に感謝をささげている行為なのです。

茶道の礼を誠の意味において学び、日常にも生かしていく心がけはきっと貴方の人生を幸ある方向に導いてくれます。私ども北茶では貴方とともに礼を探求していきます。何故なら人の世は古今問わず礼が煮詰まり集まった社会であるから。人を大切に、自分を大切に。

表裏無くして 和の有る顔がずらりと並ぶ

佐々木宗芯

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