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相手を大切にするということ

昨日は「茶の湯と香の親子教室」がありました。

親子で浴衣を着てお茶の雰囲気を楽しむ姿、男の子の活発な様子や元気の良さは多くの和を運んでくれました。

誠に有難く、嬉しい限りです。

さて、お茶の世界では「相手様や相客に心せよ(大切にせよ)」を口酸っぱく言われ続けます。

では、「心せよ」とは何を示しているのでしょうか。

簡潔に結論から申し上げますと、思いやりや誰がために捧げてみるということ、自分の心を心するという意味になります。

如心斎物語に「茶の心得とて別に無し。常を茶になして、茶の席に臨みて、あらたまらぬように、又、言葉にあやをつけてうそのなきようにありたし (『茶話抄』)」

とあります。

現代風になおすと「茶の心得といっても、別にありません。

平常の心を本に茶をなして、茶席や茶事に臨んでも、自分を偽り格別に改まらなくてもよいのです。

また、主人や相客と交わす言葉にも、とくに綾をつけて、相手に対して偽りの心を持たない様にしたい。」となるのではないでしょうか。

不白筆記にも「茶の湯は常の事也。道心礼義第一也」とございます。

茶席や改まりを要求される場においては、猫を被ったかのように急に改まり、言葉もやたらと丁寧、敬語にして、しかし、一歩外に出ると、人が変わったかのような悪し態度や言葉使いになり、一般の常識ある者より礼儀を無くす言動をする人がこの世にはおります。

これは現にお茶の世界を趣味とし楽しんでいる人だけに限らず、お茶の先生にも、多いように感じます。

私も幼き頃、祖母に連れられ流派関係なくお茶席やお茶事にお邪魔しました。

その中で幼いながら驚いたことがありました。それは、茶席では笑顔でお人柄良くうつった人が、外に一歩出ると良い笑顔はなく、亭主がどうの、お茶を運んで来た人がどうの、お席がどうのこうのと悪口陰口を言い、まるでお人が変わったかのような、別人がおりました。あるのは仲間数人で悪口陰口を言い合い、楽しそうに下品に笑う恐ろしい声だけが私には聞こえてきました。

それらの声を近くで聞いた祖母は少し大きな声で「あのご亭主のお人柄も温かく、お茶も美味しかったね。運んできてくれた女の子も可愛らしく、笑顔も素敵で楽しかったね。お茶を頂けること、こんな有難いことはないのよ。」と私に優しく言ってくれました。

祖母の言葉に答え、私も子供の特権の如く大きな声で「お茶美味しかった!楽しかった!」と発しました。

どんな場所でも、どんな場合でも、態度を変えない、言葉に嘘のない人が、本当のお茶人であります。

古今和歌集の仮名序にもあります。「人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける」

心を種と見立て、良き種を言の葉に乗せて送ると、相手の心の大地に潤いと実のなるものが生まれます。一輪の花や果実は、果ては無限の花や果実を実らせます。

万の葉がつくことを「言葉」といいます。

良き言の葉には魂が宿り、言霊となり、心や辺りを照らしてくれます。

相手に嘘偽りのない良き言葉をかけると、必ず自分にもかえってきます。そして、多くの実りと芽生え、花を咲かしてくれます。

実らせるために、先ず大切にするべきは「自分の心を心せよ」となるのではないでしょうか。

自分の本当の心を見つめ、心する。それが事(心)の破と成すに大切であります。

昔から「汝自らを知れ」とも言います。

ある老僧の逸話を引用して、少しお話します。

何を成すのか、何のために生きているのか、真の生きがいのある人生とは。それは、心に偽りのない自分でいれること、好きなことをできること。

人が人として生きている実感や生きがいのある人生を探るに良き方便とは「自分を勘定に入れないで、誰かのために自分を捧げて生きてみること」そして、人の役にたち、大切にして、人のために働いて、良かった。生きてる。幸せだな。と思える自分がわかったときに、生きている実感や生きがいを見つけることができるのではないかと思います。

一休宗純の歌にはこのようなものがあります。

わけ登る ふもとの道は多けれど

おなじたかねの月こそ見れ

月は生きる上での理想郷、目標や夢かもしれない。月に向かう道は戸惑うほど多いかもしれません。しかし、そこを直向きに目指すからこそ、その道すがらには喜びや悲しみ、幸せが溢れています。

人の目は関係ありません。自分が眼を覚ますには、自己の誠の望みとはどこにあるのか。それを突き詰めていくことも本当の幸せの一つの形でもあります。

一休宗純は自由闊達に生きました。人もどのような立場、身分であっても自由に闊達に生きることはできます。決めるのは自分であり、恐れずに空を飛ぶ覚悟さえあれば今日からでも私は自由です。

何人もあなたを縛れませんし、縛ってもいません。自分を縛って生きているのは自分自身なのです。

自分のあるべきようは。を常に希求することは苦しいのかもしれません。しかし、その「あるべきようは」を知った時に本当の自己の世界は生まれます。

人は寂しい生き物です。だからこそ、外の人や心を求め、欲し、渇望してしまいます。

外に求めるだけ寂しく、渇望するだけ、渇きます。

本当の円満な具足は自己の内にあり、幸せを生む種を持っているのも自分自身です。

そのためには今を大切にして、人を大切にすることです。

先ずは身近な人から、家族や恋人を大切にすることからはじめるのもよかろうと思います。

そして、自分と一体となり、心のなかに常に寄り添ってくれる人は生涯大切にしたいものですね。

自分では気づけなかったことを教えてくれる、伝えてくれる存在を持つことも、実りある人生には必要なことかもしれません。

それを気付かせてくれる方便としてもお茶はあるのではないかと思うのです。

最後に心について、一体さんの歌から申し上げます。

心こそ心まどはす心なれ

心に心こころゆるすな

歌の通りでございます。

あなたに感謝をして、御礼合掌。

心こそ 平常無事の大地也

種まき 咲かせて くうてやれ

大に切して 日々は好日

月来ぬならば 我が本まで落としてしまえ幸あれと

佐々木宗芯

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