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慣習に思うこと

私たち人は同じ行為を長く繰り返すと、それは慣習になると言われています。

人の心に包蔵されている、性(善)を慣習化することは、可能であるのか。

私たちは行動や行為を慣習化することで、同じ行動・行為をとることが容易になります。

同じ行いをするとき、あらためて行動する決心や努力をする必要がなくなります。

そういう意味においても、慣習化を遂げることは、楽することでもあります。

例えば、お茶の点前においても最初は訳が分からず、混乱し、ぐちゃぐちゃであったとしても、繰り返し稽古を続け、行い、慣れが生じてくると、手が無意識的に自然な運びをしている。などがあります。

それらは、自分自身が点前においてどのように手を運び、使い行動するべきかを、無記憶として心の中に定着させているからともいえます。

自然に手が流れると、心がお楽にできるのです。

そのため、美味しいお茶を点てるコツは毎回ある稽古であったとしても、「稽古とて一期一会」とおろそかにしないこと。相手を思いやる心を常に持ち続け、繰り返し稽古をしてみることが肝心であります。

その一つの心掛けが無意識的に思いやりに溢れる行動や点前などにつながり、末は上手いお茶をできるようになるのではないかと思うのです。

お茶は相手がいて成り立つ文化でもあります。だからこそ、自分自身の稽古だからと別として、相手の存在を捨ててはなりません。何より、精進し合える、自と相があってこそ、自相はなります。

慣習が生じさせる人間の行動の変化は、大まかに二つに分けられます。

一つが意識的(目的的)行動。これは、最初に目的を定め、自分で意識的に行動を続けることを示します。

二つ目が無意識的(機械的)行動であります。これは、目的を定め、意識を持ち続けていたことが、いつの日か機械的に、もっと言えば、意を介さずして、無意識的に行っている。ことなどであります。

例えば、初めは「薄茶点前を流れるようにしたい!先生のようなお点前をしたい」と目的を定め、意識的に繰り返し稽古を続けると、自分ではわからなかったが、無意識でそのようにできていた。

なぜそのようなことが私たちには起こるのか。それは、自分の定めた目的を常に心の中で意識的に言い聞かせ、行動を長く続けていると、そのうち行動の目的が当たり前となり意識することがなくなります。

それらは、身体に機械的な行動を生じさせ、無意識な行為をもたらし、継続して終わるということになるのです。

意識的(目的的)行動を習慣化することで、機械的な行動となり、心に意識せずとも、自然に行われてるようになります。

アリストテレスは「慣習は第二の自然である」と言いました。

人間は事を習慣にすることで、心に受ける作業の負担を少なくしている。それらを、慣習として成せるようになることで、自然と心が助けられているもの、と言えるのかもしれません。

利休さんも、点前は流れるように、大胆で自然にと申しています。

しかし、これら、意識的、無意識的行動の最大問題として挙げられるのは、習慣化したものは、変化することや、異なる行動を否定するという側面が現れるということです。

即ち、成長を不可能とすることを意味しています。また、慣習化したものを壊すには、大変な苦労もあります。なぜなら、その点を強く見ようとしなければ、意識できないからです。

慣習は「進歩」もなければ、「退化」もしません。

しかしながら、我が身を常に省みて、慣習を続ける力よりも、それらを壊す力を優位とするなら、それに優る人間の成長はありません。慣習を破り捨てる時、進歩は生まれます。

慣習は守ることであります。壊すことはあるものを、またより良い形に創造できる手段でもあります。さらに、進めば離れてみることも、最大の成長を生み出します。

例えば、自然にお点前ができるようになると、それらを完璧になすことに心がだんだんと固執してしまい、茶道において大切とされる臨機応変な働きや創意工夫ができなくなってしまいます。

結果的に不自然さを生みます。だからこそ、壊してみるという力も備えなければいけません。

そして、離れて、もう一度我が身を見てみる。それを何度も繰り返せることを自然な慣習にすることで、絶え間のない、成長を生み出します。

この考え方(守る・壊す・離れる)の源流は世阿弥の稽古の思想に表れています。

また、利休さんも

稽古とは一より習い十を知り

十よりかえるもとのその一

と言われています。

さらに、申せば、守り・壊し・離れたならば

それらすべてを忘れること

忘れたことも含め、すべて無に帰すこと

が肝心ではなかろうかと私は思っております。

無に帰した、先もありますが、それは自分で見出すしか、ありません。

ここまでは、実的な側面についてのお話をいたしました。

ここからは、最初に問いました、心にある性(善)を慣習化することは、可能であるのか。について、お話します。

結論から言えば、可能であります。

善を求め、慣習になるまで、善なる側面を求め続けることで、慣習化します。

話は少々変わりますが。

心の奥底にある、善なる心に気付き、それらを見出すことで、真の善性は顕となります。

こう言ってしまえば、厳しいのですが、思案したり、利や益を考えての善性は真の善行とは結びつきません。

思案せず、利や益をなくした、善行こそ真の善であります。

また、自分の利と益を目指した行動は、幸せには繋がらず、利と益に操られた不幸な人生を招くものです。

成功とは、名や利を得ていることではなく、理想が叶い、円満で幸せであることをではないかと思うのです。

茶道は成功や幸せな人生とは、私の本性、善性をしる方法を導き、気づかせてくれる一面も有しているのではないでしょうか。

また、自利を成し、利他をもなす法が茶道には包蔵されています。

善なる行動をするには、自分の心と身体がともに穏やかで清らか、律された状態である必要があります。行動の原理となる側面においてはポジティブであることはもちろんのこと、良き行動を反射的、無意識的にできる形に機能するようにしなければなりません。

即ち、心を信に念じ専一とし、無心でなされる、善こそ善なのです。

昔の話をします。仲良く暮していた猿、狐、兎は、今にも命の灯が消えそうな、おじいさんを山の中で見つけました。彼ら三匹はその老人を助けようと考えて、各々食べ物を探しに行きました。猿は木の実を集め、狐は川から魚を捕ってきました。それらを、老人に与えました。しかし、兎だけはどんなに苦心し、頑張っても、何も採ってくることはできませんでした。自分の非力さを嘆き悲しんだ、兎は、飢える老人を何とか助けたいとする一心から、自分の身を、食料とし、老人に捧げようと、信に念じ、たける火の中に自らを投じました。

それを見ていた、老人は兎の捨て身の善行の心に身をうたれ後世に伝えまいと、真の姿を現したのです。兎を月に昇らせるために。

最初に申しましたが、茶道でも、一心に相手を思いやりながら専一にお茶を点てることに心を寄せて精進していると、必ず思いやりに溢れた行動が、意識せずともできるようになります。

それは、点前にも自然な美しさとなり現れます。

心があれば、良いとするだけではお茶はならぬのです。美しい心を表現する方法に、体や点前は存在しているからです。

道具たる体を上手く使いこなし、心にある善を行ずるのみに苦心するべきです。

その行ずる心が美味しいお茶を点てる、実に結びつきます。

そして、行動のみならず言葉にも心の美しさは影響がでます。

真ならばお茶の場においてのみならず、日常でも、それら善行が常となります。

茶道の世界でしか、できないのであれば、厳しく申せば、それは偽善偽物であります。

人は理想を理想だけで終わらせてはなりません。なりたい自分(善きとする理想)がいるのなら、それを心に強く念じ、行ずるのみです。

その念じた理想の形が我が身と一体となり、必ず理想が慣習として存在する現実となります。

何事も諦めてはなりません。継続こそ力なりとする言葉の表す通り、兎に角、意識的に念ずること、自分の理想的行動を続けてみてください。

自分の願う(善性)理想を探求に尽くした先の、景色が見れるまで。

善きことをすると、善きことが自ずと報いにきます。

反対に悪きことをすると、悪きことが自分の身に報いにきます。

因果応報であります。

善きも悪きも思わずに、平常心なるは道とも申しますが、どう生きて、死んでいくのか。を考えに尽くした人の姿勢は美しいものです。それと同時に、平常心是道。今を精一杯に生き尽くしていることも。即ち、いま道を歩んでいる証でもあります。

善とはなんであろうか。いや、善悪さえも、忘れてしまった方が良いのでしょう。

一心にひたすら稽古に精進。自や他と分けず、専一に相を見つめる。それだけなのかもしれません。

最後に一休さんの歌を。

名と利とをもとむることのくげんやな

人につかはれざいにつかはれ

おもひいれば人もわか身もよそならす

こころのほかにこころなければ

大海四海の水を吸い尽くす

天を離れず住む月を

水面で笑い吸い尽くせ

ぜんもあくも一味なり

佐々木宗芯

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