昨日は茶の湯スクールKITASAがありました。
子供たちとともに、円を結んで、稽古をいたしました。
一人、一人、真剣な眼差しで割稽古に臨み、割稽古が一段落してからは、ともにお茶を喫する時間が訪れます。
子供たちは六花亭さんのおはぎをお口いっぱいにほうばり、お兄さんが点ててくれた、思いのあるお茶をいただく。幸せなお顔を浮かべておられる。それを見て、みんなが笑顔になる。
これも、子供たちがこの世に生まれてくれて、私どもに縁を運んでくれたおかげであります。
ありがとう。ありがとう。
この世には縁起論とも呼ばれているものが存在しています。
宇宙も含め、この世にあるすべてのもの、構成要素は全ては縁により結ばされているという考え方です。
無から有が生まれ、露わになるのも「縁」による諸行です。
また、逆も然りで、有がなければ無も生まれません。
この世や私たちが存在できるのも、無いと有るを縁の廻りにより繰り返しているからであります。
何も無い空間に私が手を合わせ、パチン!と叩けば、有が生まれます。しかし、その後に無に帰す。ただそれだけです。
手を合わせ、試してみてはいかがでしょうか。
生きるということも、死ぬということも、一本の線に結ばれている関係の上におります。
その線上に無数にある、縁により、私は生かされているのです。
渇いた大地に水を与えると、命の土壌が育ち、命は生まれ出ます。
そして、一つの種が風にのり、やって来て、その場にやがては、命を芽生えさせる。そして、一輪の花となる。
一輪の花は無数の命を芽生えさせる。
無が有に生まれ出る、きっかけを与えてくれるのが、「縁」というものです。
水がなければ、渇きは渇きのままで終わってしまい、風がなければ、そこに花は咲きません。
水と風、この二つが縁のめぐり合わせとなるからこそ、命は芽生えます。
人とて同じです。
我が身は縁を得てこそ、もっと言えば、縁の存在に気付いてこそ、大いなるものに感謝する気持ちが起こされ、我が身のまことの姿を知るのです。
廻り廻りの縁がなければ、存在せず、空中に彷徨う気体でしかありません。それは、今、私の話を見て、考えている我が身さえない無の世界。
無縁ではならないのです。
風を吸えば、天を吸い。水を吸えば、地になる。
我が身というものは、縁を受容する、借り物の器でしかないのかもしれません。
だからこそ、今を精一杯生きて、縁に気付き、結ばせ続ける。
その繰り返しを通じて、生きる、死ぬという一本線の迷いを切る方法を最後の瞬間に悟るのだと思います。
因縁は必ず最後は自らの手で切らねばなりません。そうしなければ、生きて、滅す最後に「私は満足円満成就」と言えず、また、輪廻を繰り返すだけになってしまいます。
無事な縁を結んでいきたいものです。
さて、茶道においては「御縁結び」により、お茶を楽しみます。
相手がいるからこそ、成り立つ精神文化でもあります。
主客一体となり、お茶のある時間を過ごします。
主客が一体になる要因を強めてくれる存在に、にじり口というものがあります。
この独特な入口を考案したのは、千利休です。
にじりの発生について、「茶道四祖伝書」でこのように伝わっております。
大坂ひらかたノ舟付ニ、くぐりにて出入りを侘びて面白とて、小座シキをくぐりニ宗易(利休)仕始めるなり
熊倉功夫先生はご著書の中で、「舟というものが、板子一枚下は水底という運命共同体であり、さればこそ、呉越同舟という世界が成立するように、茶室にいったん入ってしまえば、その中は世俗の因縁を離れた運命共同体であるとの考えが、利休の脳裏に働いていたのかもしれない。」と申しています。
茶室に至る露地は、自らを露にさせる道とも言われています。その、露わになった自分で、にじり口ににじり入り、主客一体(運命共同体)世界とひとつとなろうとします。
そのため、茶室という空間では、世俗の構成物である物事は成立せず、なお、持ち込ませずが一種の約束事でもあります。
茶室には亭主が客を想い構成し、あらゆるものに思いを込めた、事柄で溢れています。それは、世俗とは切り離された、世界でもあります。
客はその世界の縁を拾い上げては、亭主を想い、一緒に世界を完成させていきます。
ともに、織り成す世界の成就がお茶にはあります。
そのために、相手を思いやり、自らを法身とし、余計なものは捨て、今のお茶ある時間を、精一杯に私は楽しむ。
その心がけが、縁の一体を生むのです。その、行いが良縁となり、また続く。
また、お茶の世界は亭主や客という立場の違いは有りながらも、分別や区別を超え、ともに一体であろうと願う「火炉頭無賓主」の世界でもあります。
話は少々変わりますが、私はある大切な人に「一緒に狭き門に入り、その細き道を、ともに見出し、歩み、命を知り、世界を作っていきたい。二人で歩んだ、その道の先は必ず大きなものになると信じているから」と言われました。
福音書にある、「狭き門」とは、茶道においての「にじり口」と同じような意味合いがあるとも教えてくれました。
この世は不思議なものです。時代をこえ、世界をこえて、道は一体であることを、告げている。
何ともありがたいことです。
最後に一休さんのうたを。
貴賤知愚僧俗男女別なれど
ぼだいの道はひとつ事なり
有漏路より無漏路へかへる一休
雨ふらばふれ風ふかばふけ
すべての縁に。合掌。
狭き門 いずこにあるか あぁここか
縁の道すがらで ひとやすみ ひとやすみ
雨降れば天をさし 風吹けば地にとまれ
世界の道は〇なり 歩々同一味
佐々木宗芯