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幸せの見つけ方

私たち人ほど難儀な生き物はおりません。

笑っていたかと思えば、ものの数秒後には怒ったり、泣いたりと、まこと難儀な生き物であります。

食えない時は、憎み食えぬと嘆き、食って腹が満たされている時はニコニコとする。

食えぬ時は食えぬでよろしい。とはならない。

人は常に充足な我を望む。そして、満たされていても、足りない。足りないと。と迷い求め彷徨う。

しかし、人の体はめんどくさいのと同時に面白い面もあります。

腹八分で辞めていれば、美味しかったと満足できるのに。足りないからと食べすぎると、苦しくなる。

さて、本題の幸せとはなんであろうか。

古今東西見渡してみても幸せは十人十色。

例えば、禁欲的な生活の中に幸せを見出す者もいれば。金銀財宝を持っていることに幸せを見出す者もいる。

幸せの反対は不幸。幸せの文字から線を一本抜けば、辛いとなる。

不幸とは不足で幸ふことができない辛いと。自分で思い判断された時に発動します。

禁欲的な生活に幸せを感じていたのに、ある出来事をきっかけとして、禁欲の中の己の足りなさ、欲望や辛さを見出した時に不幸を思う。

たくさんの金銀財宝があるのにまだ足りないと嘆けば辛く、金銀財宝がある日失った時に不幸を思う。

また、私には幸せになる材料が足りない、少なすぎると嘆き悲しんだ時に不幸が心に現れる。

人は幸せを探し続けてずっと彷徨い続けています。

では、真の幸せとは。

それは、自分が心の底から和やかで温和な表情を浮かべている時。それらの表情が愛となってあらわになり、人に愛語を伝えられた時。

十人十色の幸せの共通点はただ一つ。

それは、自分も相手も和顔で愛に満ちていた時です。

どんな物事も人の真の価値や本性を暗くして、縛ることはできません。

人が長年作り上げてきた教義や信仰でも、金銀財宝さえも、人の心中にある真の美しさにはかないません。

人間という文字は人との間と書きます。

人の世にある全ては人と人との間において、作られてきたものでしかありません。

それは人と人との縁の諸行によって創られ育まれる形であったりします。

人は一人では生きてはいられません。

どんなに立派な教えや金銀財宝があっても、人が人を支え合い生きている以上に幸せを生み続けるような価値のあるものはありません。

自分の持っているものを差し出し、相手を支えようとするから、私も支えを受ける。

幸せを生む術の一つに施しというものがあります。

どんなに善き心を持っていても、金銀財宝、名物や名品を所有していても、人にそれらを施し、見せられないので有れば、宝の持ち腐れ。人の腐れであります。この世に出せないものを持っていても、意味はありません。ないのと同じです。

利休さんも

茶を点てて仏に供え、人にも施し吾も飲む

とお茶を施す大切さを仰せになりました。

神や仏にお供えして、人にもお茶を施して、自分も飲む。その中に幸せがあったりします。

何もお茶だけではありません。

お人に対してお優しいお顔と愛のある言葉を伝えて歩もうと決心をして、実行するだけで幸せはすでに叶っています。

前も申し上げましたが、幸せという言葉は「仕合わせ」とも言われています。

お互いにつかえ合うこと、支え合い助け合うという意味になります。

決して一人では生きられない人間は多くのお陰様によって生かされているのです。

だからこそ人と人がお互いに支え合うことによって、喜びを感じるのです。それが本来の「幸せ」の形なのではないでしょうか。

周りの人が穏やかで笑っている。幸せな表情をしている。だから私も幸せを感じてしまう。そんな素敵な心から幸せは無限に湧き出るのではないかと思うのです。

少し話は変わります。

子供好きで名筆で虫や動物を衣の中や家に招いては共に暮らしていたことで有名な良寛さんの詩をご紹介します。

破れ果てた衣 ぼろ衣は自分の生涯のよう

食は乞食をして間に合わせ 家は実に雑草だらけ

月を見ては夜どおし詩を口ずさみ 花に迷うて家にも帰らず

ひとたび昔の寺を出てからは あやまってこんな愚者となる

このような中においても、今を生き尽くしているような境地、幸せで豊かな心を感じられるのはなぜでしょうか。

臨済録には無事是貴人という言葉があります。

お茶では平穏無事に過ごしている人は貴人である言われますが、無事の意味をもっと深く探究してみましょう。

無事とは、外に求める心がピタリと止んだ時であると説かれています。

私たち人は外に求めるものが非常に多くあります。それは、財産や知識、教えであったり、幸せであったり、愛情など、さまざまなものであります。

茶道の稽古・修行であれば、お茶とは何かを追い求めます。

求める心がピタリと止むとは、無理に追い求めようとしないことではなく、求めなくても十分に満ち足りている私に気がついてあげることです。

私がお茶とは何かを追い求めていた時のお話をします。

私はある日のお茶事を終えて、一人で名残ながらも、無心で点前をしながら、独服しておりました。

お茶を飲み終え、水を釜に入れました時に、釜より「キューー!!」とする甲高い声で話しかけられました。

この時、私は足りていたことを。一人ではないという事実や多くのものにより生かされているありがたさに気付き、胸がいっぱいになりました。

それと同時に「あるがままでよい」と思えたのです。

それまでの苦心はなくなったかのように、何とも有り難い、満ち足りている気持ちになったのです。

臨済禅師は「求心やむ処、即ち無事」

外に向かって求め回ることをやめて、足りていることを知れたなら、即時に無事、大安心であるということです。

私の家の三友庵の教えには「本を無為とし常に茶の道をなして他がためをなさん」というものがあります。

外に求め回ることをやめ、一切のはからいの心を捨てて、何もしないという無為こそ無事安心を知る法であるということです。

生き尽くす尊さ、生きている有り難さ、生かされていることを知れたからこそ、無事安心な境地が生まれ、穏やかな心と顔でお茶を点てられるようになる。

また、足るを知って、現成受用、只管精進に尽くすこともお茶を成すものにとり大切なことではないでしょうか

続いて私はこのように思います。

生きているのはおかげさまがあるから。

生きているという真実は何よりも価値のあること、そして生かされていることに気付き、私を生かしてくれている、この世に、人に感謝を伝えて報いてこそ、貴人であると。

外に求め回りはしないが、外に出て一人一人の和顔と無事を願い、感謝報いる。それが無事是貴人の本来の姿ではないでしょうか。

私だけ良ければ善とするのではなく、和顔と愛語、無事安心な心を人にも伝え回ってこそ真の貴人であります。

幸せとは生きているから、感じられます。

迷いの渦に埋もれてしまっている、幸ふものを掴み取ることができるのは、自分自身です。

そして、幸せとは案外身近なところに隠されているものです。

お茶を通して、それに気づき、平常で無事穏やかな幸ふ心を見つけられる人がたくさん現れますように切に願っています。

この世を人知れず支えている貴方に。御礼合掌。

今日無事 和顔愛語

佐々木宗芯

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