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寄付者は菩薩「財施・無財施」

寄付したいなぁ。でも少ないから何にもならないよね。

私はあそこに多額の寄付をした!

寄付したから返礼の言葉や何かは相手からもらえるよね。

布施ってお坊さんに経読んでもらって渡すお金だよね?

世間では寄付と布施の意味は違うところにある向きの方が強いそうですね。

寄付とは辞典などでは公のことや事業のため、金銭や品物を【贈る】こと。

布施とは僧侶などに金銭や品物を施し与えること。また、金銭・品物のこと。

と定義されるようでございます。

しかし、このどちらの意味も正解の一つなので良いですが、ちとまだまだ見方が浅い気がいたします。

無償とは

寄付の項目を色々と見ていくと「無償」という言葉が多く拾えます。無償とは返礼に当たるような言葉の報酬も対価も要求しないことを示しているようでございます。また、面白いことに無料であること。対価を支払わないことも示しているようです。受けた側の意も隠されているようですね。

無とは字のまま無いことであります。そして、償はつぐなうとする言葉からも分かるように返すという意味があります。無償とは自分に元々ない物を貴方に渡しました。だから返すことなんかしないでくださいと言う意味に置き換えたらどうでしょうか。相手に差し上げる行為でさえ、自分のものではなかった。だから無償が無私の心になり得るのではないでしょうか。

落とし物を届けたらそのうちの取り分があるようです。しかし、取り分を期待して届けますか?落とし物を我が物に純粋にしたいならそのまま盗ればいい。ではどうしてそれをしないのか。ここに徳の一つがあるのです。日本人は親切心良く、世界的にも落とし物がよく拾われ、取り分の受け取りを拒否する方が多いと聞いたことがあります。何とも有り難いことであります。

無償の行動行為こそ徳の総体であります。見返りを求めずにただ差し出す。

寄付と布施は同じ一対

寄付も布施も同じ関係線状の上で成り立たなければ徳する意味が無きものになってしまいます。寄付布施ともに一対である必要がございます。寄付は渡す行為を、布施は心であります。

渡す側も受ける側も気を付けなければいけないことがたくさんあります。

寄付する者は無私の心からそれを成さねば徳にはなりません。また、受ける側も無私の心でありがとうと言わなければなりません。

それは、渡す側が何かの意図を持ち、何かを期待してその寄付行為を相手にするなら、それは無償無私の心ではありません。また、受ける側も過分に礼をし、金銭に上下をつけ、価値をさだめ値踏みするなら無私の心から離れ、相手の心ではなく金に頭を下げているのと同じであります。

渡すものが「私」と「私、相手」を分けていると我が手柄、我が顔とする気持ちが起こってしまいます。それは折角の自分の思いを裏切ることになり、後に残り続けます。親切な心の放棄であります。

不純な布施 七つとは

何かのやましい意図があってする寄付について倶舎論には不純な布施七つとして挙げられています。

一 随至施 あまりしつこく乞われるので断り切れず行う布施。

二 怖畏施 それをしないと具合が悪くなりそうなので、仕方なくする布施。

三 報恩施 恩返しのためにする布施。

四 求報施 返礼を期待して行う布施。

五 習先施 習慣、先例に基づいて行う布施。

六 希天施 その功徳によって天界に生まれたいと希望して行う布施。

七 要名施 名声を高めるために行う布施。

この七つがあるとされています。気を付けなければいけません。

近頃、返礼品合戦が多くの受者・自治体で巻き起こり、困った不和をニュースで拝見していました。経済や地方活性化策としては良いとは思うのですが、それで差異が生まれ、後の禍に結び付かなければ良いと私は思っております。

寄付する者は損得勘定ではなく、親切したいとする、気持ちある自治体に納めてあげることが自分の気持ちも良きに、「あぁこの自治体、こんなこと頑張ってるんだぁ。嬉しいな」と感じられるはずであります。

やはり、寄付をする以上は無私の心で渡さなければいけません。

受ける側もやはり、無私の気持ちなくば、寄付の大きさに拘り、誰に頭を下げているのかわからなくなります。そして、何かを受ける者は相手より受けた行為の大きさにより、返報性の働きが変わりますので揺らがぬよう気を付けなければ、無限地獄であります。

布施とは菩薩の行

菩薩とは自己の目指している世界を探しつつ、他者のことも自分事のように考えられる方のことを示すと言われています。

自己他己を同一視するに励み、行に行を行う方々を示すとも言われます。

菩薩のなす重要な行に布施があるとされています。

寄付を布施の中でいえば、金品を当てるため財施と呼ばれます。財施には物なども含まれています。

七つの無財施とは

金品(財施)では表現できない真心のことを無財施と言います。無財施には心施・和顔・愛語・慈眼などがあり、その他三つに捨身施、壮座施、房舎施があります。

心施 心の施し。人の心になっていたわり、考えること。我が身同然。

和顔 優しい顔、和らいだ顔。怖い顔せずにお地蔵様のお顔の表情で接すること。

愛語 優しい言葉。真心の愛のある言葉。

慈眼 有象世界や空間的な視覚ではなく、心の目で万物の心象世界を見る事。仏様のような心に変化する慈しみの目で見つめること。

心から相手に寄り、優しい言葉をかけ、慈しむ目で真心から相手を見つめ、顔生まれる。であります。

捨身施 自分の身体を使い奉仕すること。人の嫌がることも率先して行うこと。捧げること。

壮座施 自分の席を誰かに譲ること。見えること、見えないもの問わず譲ること。

房舎施 雨雪、風をしのげる所を与えること。

月の兎のエピソードは有名でありますが、ここでいう捨身施を表しています。ある僧侶が空腹で倒れているところを発見した仲良し三人の猿・狐・兎は助けるためにそれぞれ食べ物を探し始めた。猿は果実を運び、狐は川魚を、兎だけが何も持たずに帰ってきた。そこで兎は仲間の猿に薪をとってくるように申し訳なく頼み、火をつけたところに兎は自分を食べてほしいと伝え、飛び入りました。この時に僧侶は涙を流し、菩薩様と変化して、兎を月の世界(天上界)に生まれ変わらせたとする話であります。月で餅突きをする兎はこの話の兎だと言われています。

自分の席を渡す行為も捨身施であります。自分の席とは座っている席を体の不自由な人、お年寄りに譲ることなども含まれていますが、見えない席も譲れることも捨身となります。席に固執しないということです。

この七つを無財の七施といいます。七つ全てが結びついています。

道元禅師のお言葉に「愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくする。面で愛語聞くは肝に銘じ、魂に銘ず。愛語能く廻天の力あることを学すべきなり」とあります。

北茶を立ち上げた昨年の頃でしたか、私は昔から縁のご年配の方とお食事をする機会がありました。その人はある業界で長年にわたり子供たちのために努力をして、名のある方でもあります。

その人との笑顔溢れるお食事の最中、事は起きました。お食事会が進み、途中、その人は志と書いたとても厚みのある封筒をカバンから取り出して、法人にではなく「お支えします。好きに使ってください」と私個人に寄せて渡してくれました。受け取った私はただ「ありがとうございます」と言い、すぐに仕舞いました。その後何事もなかったかのように一緒に微笑み合い、良き言葉包む中、昔話に花開き楽しく終わりました。封筒を受け取って決めていたことはただ一つ、その寄付金が私当てのものでも法人にその人の名前から寄付しようということです。

私はただその方の「志」と名の有る心を寄せていただき、その中は預かっただけです。

その後すぐさまその人に電話して言ったのは「すべてあなたの名前で法人に寄付しました」と言いました。その方は一言「はい」と発し、続いて「好きに使ってください。と言ったからそれで大丈夫です。」と何事もなく微笑む声だけ互いに行き交い時過ぎました。その方とは心の意と心の導が結び付いていました。有り難いことであります。

過分に礼をすることも相手様の心を揺らがせる邪魔になり、徳を潰してしまう可能があります。だから一言二言しか言いません。しかし、その方は菩薩のような尊い方であります。不純な気持ちは微塵もなく、純粋に渡してくれていたのは言葉や行動態度から伺えました。

寄付を直接お受けすることは多々とありますが、私はどんなもの来ようと過分に礼はいたしません。ただ相手の目を見て心して「ありがとうございます」しか言いません。それで心の揺らぎが起こるなら不純な動機での寄付行為でしかありませんので、返しても良いと思っています。中には面白くないとする態度を取り続ける人もいましたが、私は一切気にしませんし、寄付云々にも触れません。言うなれば「とくしましたか?」だけです。このように話しかけるとハッと不貞腐れ者も和らぎます。面白いことです。

三輪空と受者三つの心得

寄付した者が見返りを求めないためには三輪空を心する必要があります。

一 施者(私が)

二 受者(誰々に)

三 施物(何々を)

この三つを忘れなくてはなりません。有るを無に返すであります。

受ける者も施物の大きさで頭と言葉を変えないように三つ心しなければいけません。

一 受者(私は)

二 施物(米粒一つ、米粒満々でも)

三 施者(全てに感謝、お陰様)

真心からの親切は自分にきっと返ってきます。何故ならその行いをする時すでに返ってきています。寄付した者も受けた側も心が満ちます。

それを心して見るだけで温かな体が残っているはずであります。寄付したとき一種の高揚感があると思います。その高揚をどの方向にもっていくのかが精神や頭の使い様で変わります。良き面に残すのか、悪き動機にもっていくのかで人の向かうべき道は変幻自在です。時が自分の行為を忘れさせず、肯定を求めるならその行為の記憶を忘れ、脱ぎ去るのが良いですね。

然るに人は有り難い。居られるだけで尊い。万物に感謝を捧げ。御礼合掌。

善を悪をも心せず 無私も忘れ道なり進 然るに菩薩

佐々木宗芯

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