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国の宝とは

お国の宝とは、もっと言えば、世の宝とはなんであろうか。

身分や立場、財力や権力を多く有するものがお国の宝であるのか。それとも金銀財宝、価値ある物や歴史や伝統・血統がお国のお宝なのか。

確かにどれも益や利のある「宝」ではあるかもしれません。

しかし、そんなものは本当のお国の宝物ではないような気がするのは私だけであろうか。

国の宝とは、道を求め、世のためやお人のためにとただひたすらに善を求め、周囲を明るく照らす人間性やその方法を求めていく人こそ国の宝ではないであろうか。

また、お人を和顔にして喜ばれ頼られる人はかけがえのない国宝なのです。

社会の世の片隅でそれを成そうと励んでおられる方は、この世に多くおります。

比叡山の開山・伝教大師はこのように申しています。

国宝とは何ものぞ。宝とは道心なり。道心あるの人を名付けて国宝となす。

経寸十枚これ国宝に非ず。一隅を照らす、これ国宝なり

只管に道を求めて、自分のことを忘れて、世のためや、一人のためにと奉仕できる者こそ、「国宝」ではないでしょうか。

不思議に思うことがあります。

「お若いのにえらい」とする言葉です。なぜ「みんなえらい」とはならないのでしょう。

今を生きている動植物、人すべてが「えらい」のであって、年齢や立場などにより「えらい、えらくない」というものは存在しないのではないかと思うのです。

若きも老いも関係なく、精一杯今を前向きに生き尽くそうと励んでいる心の働きが「えらい」のです。

私は「先生」や「理事長」とする立場上、初対面の方に「お若いのに・・・」「お若いのにえらいですね」とする言葉を投げつけられることがあります。そういう時に返す言葉が決まって「おかげ様です。皆さんえらいですね」

褒めている意味の時もあれば、皮肉や小ばかにした感じで言ってくる方もおられますが、何も私は若いから、先生だからえらいわけでも、ましてや理事長だからえらいわけでもありません。

この世の「えらいみなさんのおかげさま」があってのことなのです。

私が生きていられるのは、心が生きているのは、この世の多くの人やものの大恩を常に受けているから。

それら尊い大恩を感じるからこそ、うけた恩を少しでも世に人に返そうと一生を感謝に行じて報いて参ろうと誓っているにすぎないのです。

もう一度申し上げます。この世にあるもの「すべてがえらいこと」「ありがたいこと」なのです。

ある一人の老人のお話をします。

その老人は常日頃より周りの人、家族に感謝に尽くす心と行動をとっておりました。毎朝はやく起きては、昇る太陽に合掌をして「今日もお天道様、ありがとうございます」と感謝を告げていました。

若かりし頃、夫の余命がないと医者より告げられた時、寒さこたえる日の中、お百度参りをして「私がこれから生きるであろう寿命のうち十年を人々や家族に尽くしている夫に差し上げてください。」と神仏に願い、その夫は十年に近い日を生きました。

ある時、ひ孫が生まれた時には「生まれてきてくれてありがとう。私に最大の幸せをプレゼントしてくれてありがとう。」と言いました。そして、老人は自分で何かをするにも大変苦労のある中、そのひ孫が泣けば、紐で結び抱いて散歩してあやしていました。

そのひ孫が「おばあちゃん、おばあちゃん」と呼ぶ声を録音したぬいぐるみに命が切れかける最後まで「はいよ」と答え続ける慈愛を持っていました。

自分で身体を起こすことも、話すことも無理なほど、命の灯火が消えかけていた中、ある人が来ることを待ち続けていました。周りの人も何を待っているのか不思議がっている中、その人物は訪れます。その人とは娘の夫であります。

自分がお世話になった娘の夫が病室に入ってくるとゆっくりと体を起こし、その夫に向かい合掌をして「かくさんのおかげさまで、今日まで幸せに暮らすことができました。ありがとう。ありがとう。」と言い、命の灯火を自ら消しました。

この老人とは私の曽祖母であります。そして、曽祖父が生きた十年に近い年月で生を受けたのが、祖母であります。

そして、これらは数ある曽祖母の逸話の中の一部のお話です。

今でも曽祖母の話は祖母より、母より事あるごとに、出てきます。

話が少し脱線してしまいましたね。

ここから話が少々変わります。

名のある大企業のお役員、アメリカの高官、政治家、各界の名士などが集う会にはじめてお邪魔したときのお話をいたします。

びっくりこのようなご紹介を司会の方よりしていただきました。

「茶道の法人の理事長であられ、茶の湯の名人である佐々木竜稀先生です」

大変光栄なことではありますが。

私はそんな大したものでもありませんし、ましてや名人なんてご大層なご紹介は御免被りたいのです。

お茶の道に覚悟と志を持ち歩んでいる者は以下の三つを実践しているか否かが肝心ではなかろうかと私は思っているからです。

一 茶湯の道に只管精進していること

二 茶の湯を成し遂げようとすること

三 茶三昧に勤めていること

三つのことのうち一つでも一念発起して今に実践しているならば、茶はすでに成就しております。

関連する言葉を引用します。

「三昧とはどういうことか。それは、思いを専一にし、相を寂にすることである。思いが専一ならば、志は一つとなり別れることがなくなる。相が寂ならば、気は空となり、精神は明朗となる。気が空ならば、智は安定し、ありのままの本来の姿が見えてくる。精神が明朗ならば、どんな些細な道理にも透徹する。この二つはそのまま自然の哲理であり、一つとなって作用するものである。」慧遠法師の『三昧詩集序』より

分かりやすくするため、思いを自や主観、相を他や客観に言い直しても良かろうかと思います。

また、以下の5つのこともお茶を成している者にとって大切な心ではないかと私は思っています。

一 「私はお詫びするほどのことしか貴方様にできませんが、お茶でも一服ご一緒にいかがでしょうか」とする茶布施の心

二 お相手さまや全てのものの大恩に感謝尽くす心とそれら大恩に報いる心

三 全てを慈しむ気持ちと善行を成さんと励む前向きな心の働き

四 常にこころを調えて一直心に今に行ずること、如何なる人にも自分にも一心にお茶を点て、しあわせ喜ぶ心。

五 四つを成就させるために自も他も忘れ、有無さえも捨てる現成受用する空の心

このような心がけは日常や市井の中において発揮されるものであります。

ひとえに拈茶微笑を芯とし市井の中を只管歩んでいる「一人の茶人」で私はいたいと日々願っているのです。ですから、名人という名はご遠慮したいのです。

会にて色々な方とお話をいたしました。また、お食事中周りを見てますと、やはり立派な人の集まる壺の中は不思議なものです。

真心からの笑顔とは感じ取れない怖い笑顔、皮肉や悪意の感じる言葉、テーブルマナーができない者をニタニタと陰から笑う者もいたかと思えば、和やかなお顔と真心の笑顔をお持ちの方、お優しい目、自分をお持ちの方と色々な人がおります。

また、私が「お料理美味しいです。ありがとうございます」と伝えた一人の若いウェイターの青年、戦時を体験されたご高齢な快活な老紳士のお顔と言葉がとくに和やかでお優しいものに映ったのはここだけの話です。

仏教詩人の坂村真民先生の「こころ」という詩を紹介いたします。

こころを持って生まれてきた

これほど尊いものがあろうか

そしてこのこころを悪く使う

これほど相すまぬことがあろうか

一番大事なことは

このこころに

花を咲かせること

小さい花でもいい

自分の花を咲かせて

仏さまの前にもってゆくことだ

人の心の中には無限に広がる大地やお空があります。

その大地に何を咲かせ、育むのか、お空には何を浮かべるのか。それを決めるのは自分自身であります。

大地が枯れてたままでは、花や草木は一生咲かないでしょう。お空が暗いままだと、花は育たず、歩むべき道も真心の在処もわからずいたずらに日々を過ごしてしまうでしょう。

大地が枯れたなら「私を」清い水にして注げばいい。お空が暗いなら「私が」輝けばいい。

こころを善き方へと前向きに生かしつくすことで、生まれたときに手に持っていた尊い種を見つけることができます。いや、その手に持っているのに持っていないふりをしているだけかもしれない。気付いていないのかもしれない。

こころの中にある種に気付かなければ、花は咲きませんし、種の意味もありません。

また、外に種があると思い外にと人にと種を求めてしまうことをこころの迷いとも申します。

ふっと今の私を見つめてあげてください。

こころの中にいる尊い真人の私はどんなお顔をしているのか。

人は生まれたとき、純粋無垢で愛に幸せに善に満ち溢れていました。つかえるかのように家族が周りの人が見守ってくれていたから、多くの愛情を注がれたから、その時の自分は満面の笑顔を通じて愛を家族や周りの人にお返ししていたのです。

そのお互いの繰り返しがまた幸せを生み続ける。

しかし、いつしか悪意が育ちすぎ、善意が弱まり退けるようになってきます。それほど、悲しいことはないではありませんか。

皆が尊く、和やかで幸せでいてよい存在なのです。

幸せという言葉は「仕合わせ」とも言われています。お互いにつかえ合うこと、支え合い助け合うという意味になります。決して一人では生きられない人間は多くのお陰様によって生かされているのです。だからこそ人と人がお互いに支え合うことによって、喜びを感じるのです。それが本来の「幸せ」の形なのではないでしょうか。

だからこそ自分だけ孤立して悪意に染まって見えてしまうほど悲しく、苦しいものはないではありませんか。

悪に酔ってしまったのは状況や縁が悪かっただけ。

こころの中にいる真のあなたは何も汚れ染まってなんかいません。

汚れた仮面をつけ続ける苦労それに先ずは気付いてほしいと切に願うばかりです。

仮面にひびを入れられるのは仮面のうちにいる、本当の私です。

どんな人も一つ発心あれば人を笑顔にして、頼られる世の宝になれます。それができている自分がいるということは、真の宝を手にした満ちて成功している私がいるということです。そして、それらが実りある人生をつくる生きがいにもなったりするのではないでしょうか。

そんな宝に溢れるような世の中に、和顔愛語の人々に溢れるような美しい日本でいて欲しいと願うばかりです。

以前も申し上げましたが、最後に宗祇、肖柏、宗長ら三人の連歌集「水無瀬三吟」より私が北茶に持ち続けてほしいと願う心、お茶の意をお伝えします。

97番目 山はけさいく霜夜にかかすむらん 宗長

98番目 けぶり長閑に見ゆるかり庵 肖柏

暗く霜の厳しさ有る山の中を歩く者は前を向けば霞む視界に参っていた。

ふっとその者、顔をあげると、そこには煙が立ち上るどこか懐かしい庵が目についた。

何故だろうどこか長閑な場所に感じるなと思いながらも、霜で冷えた体暖めようと庵ににじり入り、そこにいたのは笑顔で迎えてくれる一人の茶人であった。

茶人は何も聞くわけでもなく、ただその者に手を拈り微笑を湛えお茶を点て差し上げるのであった。

すっかり心も体も温かくなったその者はまた、厳しき霜夜の中に戻るのであった。

また此処をいつでも尋ねることができると分かっているから。

私にはお茶がある

あなた様にもお茶がある

みんなにもお茶があり

みんなそろって茶を成就した

それで良いではないか

合掌

宝山雑然無念と嗚呼もなく

我が身一つが宝珠なり

佐々木宗芯

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