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十牛図のお話 四「得牛」

牛を尋ねて出かけ、足跡を見つけてそれを辿り、その先に見つけた牛、もう逃がさないように牛に手綱をしっかりつけて自分のものにしようと励む段階を得牛といいます。

見ただけでやれ悟った、分かったなどと思ってはいけません。

やっとの思いで見つけた牛を我がものとして得られないようではこれまでの苦労は水の泡。

さぁ手綱をしっかり持ち、捕まえよう。

これまで自由勝手、方方で楽しんでいた牛を捕まえようとすると暴れる、暴れる。

第一の「尋牛」でもお伝えしましたが、「十牛図」とは、私たち人が本来持っている真心、悟りとも、目覚めとも、本当の自分や己事究明ともよばれるものを牛に例えて、その本性や本来の自分を求めて歩んでいく修行の過程をいいます。

その本当の自分を得ようとするも暴れる、逃げようとする牛に孤軍奮闘する段階を得る牛といいます。

お釈迦様も「己こそ己のよる辺」と申しました。

その本当の「己」を捕まえようとする得牛。

正しく調えられた本来の自分を取り戻し、真の心を自覚して、真の自己を呼び覚ます。

自分を自分の拠り所として人生を生き尽くす。これが人としての大事であり、大自在の心であります。

真なるものを得て、正しく使い、上手く扱いきる。

本当の自分をさぁさぁ得てみましょう。

では、今回は第四の得牛、前回と同様に序と頌、訳をのせてお話します。

どのように牛に手綱をつけて、自分のものにできるのか。

ご一緒に手綱の使い方、捕まえ方を学び、牛に手綱をつけてみましょう。

得牛 序

久しく郊外に埋もれて、今日渠に逢う

境勝るるに由って以て追い難し、芳叢を恋うて而も已まず

頑心尚お勇み、野性猶お存す

純和を得んと欲せば、必ず鞭撻を加えよ

得牛 序(訳)

永い間、草深い山や野原に河を方方と駆け巡り、やっと今日、野性を取り戻した牛に巡り会った。

こちらも今まで見たことのない境の美しさに思わず見とれてしまい、牛のことをすっかり忘れてしまうほどだ。

牛は今まで野にいたため、こちらが近づくだけで荒れ狂い奮い立ち暴れるばかりで恐ろしいものだ。

大人しくさせるには、先ず鞭で打って、打って打ちまくるほかない。

得牛 頌

精神を竭尽して渠を獲得する

心強く力壮んにして卒に除き難し

有る時はわずかに高原の上に至り

又た煙雲深き処に入って居す

得牛 頌(訳)

精神、精力を使い尽くしてへとへとになって、やっと牛を捕まえた。

牛は気性荒く、力も強いので、易々と簡単に手なづけることはできない。

ある時に高原の丘に駆け上ったかと思うと、

どこかにフッと消え、雲隠れしてしまうのだ。

 

十牛図の中にある第四話にあたる「得牛」は童子が必死に求めていた牛を得ようと頑張る状態から始まります。

この牛とは本来の自分でもあり、理想とする自己の姿でもあるのです。

また、それは悟りの象徴でもあります。

探していた本来の自分は今まで野性で自由勝手であったため、上手く得ることはできないのです。

得たと思っても、消えてしまう。

見つけるのも大変でありましたが、得ることの方が苦労します。

牛が目の前に現れたなら、よし、捕まえてやる!と頑張るしかありません。

牛をどのように得るのか。

では、ひとつひとつ、序と頌を見ていきましょう。

久しく郊外に埋もれて、今日渠に逢う

本来の自分とは。今ここに安住している真心そのものをいいます。

決して失っていたわけではありません。ただ、気付けなかっただけであります。

人は生まれてから今日まで、立派な体と心を持っていながら、それに気づかず分別という知恵をつけたばかりに、真心の牛というものをわからなくなっています。

人の分別の知恵が真心を遠ざけ、本来の自己を野性に追いやっているのです。

居場所を追い出された心の牛は方方に隠れてしまったのであります。

今日、郊外に埋もれていた牛を見つけたのです。

理想の自分とは分別の知恵より導き出されるものなのでしょうか。

外からの判断基準により定まるものなのでしょうか。

いいえ、貴方は貴方のままでよろしいのです。

良く見てください、心も体も立派にあるではありませんか。やっと自分に会えましたね。

境勝るるに由って以て追い難し、芳叢を恋うて而も已まず

あるがままの牛というものは、その境地が素晴らしく、立派で勝れています。

しかし、今まで人は俗世に生きすぎたうえ、分別の知恵をつけたばかりに、なかなかついていけません。

あるがままで今日よいと思っても、人から導を教えられても次の日にはそう思えない。

少しわかったところですぐに消えてしまう。

境地、境界というものは、それぞれ違います。

犬に仏性が有るか無いか。と言われても、犬の身にならなければその真実、境地、境界はわからない。

魚の境地や世界はその魚にしかわからない。

寒い中、これは苦労であろうと魚をお湯に入れてあげると魚は苦しみ死んでしまう。

このようにそのものの境地はそのものにしかわからないのであります。

ひとつ逸話をお話します。

乞食の桃水といわれた桃水和尚は、自分の寺を放り京都の鴨川のほとりで乞食をして生活しておりました。

その噂を聞いた弟子ははるばる遠くから師匠を尋ねました。そして、探していたお師匠を三条の橋の下で見つけて言いました。

「寺をお捨てになったのはやむをえんことではあります。しかし、弟子をお捨てになることはあんまりでございます。私のお師匠さまはあなたさまほかおりません。私も寺を捨てて出てまいりました。どうぞお連れください。」

と弟子は桃水に頭を擦り付けて懇願いたしました。しかし

「お前とわしとは境界、いる境地が違う。とても一緒には歩めないのじゃ」

それを聞いた弟子は

「そうおっしゃらずに、どうぞ。あなたの境界を学びますから、何卒お連れください。」

桃水和尚は一喝します。

「ついてきてもだめじゃ。帰れ、帰れ。」

と言われても諦めない弟子は後をつけて、逢坂山を越えて大津の方へ行きました。そこで、道端に乞食が一人行き倒れになって亡くなっている。それをみた桃水和尚は

「さても気の毒なことじゃ。ここに仲間が往生しておる。誰も葬ってやる者がないようじゃから、向こうにあるお百姓の家に行って鍬を借りてこい」

と弟子に伝えました。

山に穴を掘って、その乞食を埋めて、お経をよみました。ふと傍らを見ると、欠けた椀の中に残飯が残っている。

桃水和尚はそれを見るや

「さてさて、これは冥加のよい乞食であったことじゃ。人は食べるものがなくて野垂れ死にをすることがあるというのに、こやつは食い余して死によった。勿体無いことじゃ。ひとつこれを今日の供養に頂戴しよう。有難いことじゃ。有難いことじゃ。」

そういうと桃水和尚は、死んだ乞食の欠けたお椀に残った飯をうまそうに食べました。

そして、弟子に

「これは、今日の弔いの供養じゃ。おまえに半分をやる」

といい、弟子に半分を渡しました。弟子はそれを食べようとするも、どうしても食べる気にならない。喉へと入らないのである。お師匠様はうまそうに食べていたが、どうしても汚いもの、美味そうなものには見えない。だから食べる気が起きないのである。眼をとじて、心に念仏を唱えながら食べてはみたが、腹におさまらない。しばらくすると吐いてしまう。そこで桃水和尚は

「境界が違うとはこのことなのじゃ。お前とわしとでは生きている世界が異なるのじゃよ。だから一緒にはいけん。さぁ帰れ!帰れ。」

このような境界についてのお話があります。

本来の自分や面目というものは、分別、妄想や煩悩に溢れている境界では、測ることも得ることもできない。

分別の知恵でもって、頭や理性でこの本来の自分や真心の牛の境界を探り、得ようと思ってもそれが叶うものでもないのです。

桃水和尚は何故寺を捨てたのか。

名筆で有名な良寛さんも寺を捨て山奥に暮らし、子供と村人と戯れていた。

なぜこの名僧たちは寺で安住しなかったのであろうか。

寺に安住しなかったのは、この世を救うため、皆が少しでも笑顔でよくなるために捨てたと思われます。全体の業を一身に受け、一人でも救わんとしたためであります。

桃水和尚が乞食の供養をしたのも、その残飯をうまそうに食えたのも、乞食を救えなかった悔む気持ち、乞食の分まで生き尽くすという決心からではないでしょうか。

一足早く会えていれば、乞食は救えたかもしれない。そんな救えなかった懺悔と悲しむ気持ちから、本来は食べる資格もないこの身に生きる喝として、供養の分として残飯をいただく。

本来は受ける資格もない。しかし、それを受けるから残飯さえも謙虚に「有難い」と思える。

この心が菩薩の業であります。

自分の身より、相手を生かす。そして、相手を救わんと苦心して、命や身をすり減らす者を菩薩様といいます。また、常に相手と同じ高さに身を落として、謙虚になり人を救済しようと励む者も菩薩といいます。

悲というものは他人を生かしたいとする本能的な真心から起こるのであります。

粒粒辛苦という言葉があります。

米粒ひとつも捨てずに、それを有難く頂戴する。米を作るのにどれだけ農家さんが苦労したかは、分からないが食べられることを当たり前としてはいけません。

私の曾祖母は常日頃このように申していたようです。

「食べられることは当たり前ではありません。米粒一つでも残してはいけません。一粒、一粒に真心や仏様が宿っているの。農家さんやお天道様、お米を頂けることすべてに感謝して頂戴しないとね。こう手を合わせてね」と言っていたようです。

皆さんもご飯を食べる時は「いただきます」を言いましょう。

本来の牛が食べる草は、そこらに生えているものとは違います。

分別の知恵でより分けられた美味い草は食べないのです。

煩悩や欲に溢れたものを与えようとすると、牛はそれを嫌い逃げてします。

余りにも生臭いものは好かないようです。

生活そのものに清浄無垢、無分別なものが働き、生きていなければ、仏性の牛はそんなより分けられた世は嫌だ、現実は臭くていやだ、こんな欲に妄想煩悩に溢れた世界は嫌いだといって、山へと逃げてしまいます。

本来の自分とは本より無分別であるからです。もう一人の自分が分別しようとするとそれを嫌います。

理想の自分とは「あるがまま」で真心から生活できることを言うのではないでしょうか。

頑心尚お勇み、野性猶お存す

この牛はとても立派で、たくましいことであります。

頑張って手綱をつけても、振り払って逃げてしまう。

ちょっとの迷いや隙があるとたちまち、山へと消えてしまうのです。

つかまえても今まで野性であったため、自分のものにするのは難しいのです。

純和を得んと欲せば、必ず鞭撻を加えよ

牛をよく飼いならすためには、いつも一緒に離れない様にいるようにしなければいけません。

この暴れ消える牛をおとなしくさせて素直にさせようと思うならば、しっかり手綱をとって、牛を離さない様に尻を叩いて厳しく接しなければいけません。

茶の湯の時だけ、和敬清寂と茶三昧とそれらしくしても意味なんてありません。

普段の生活に和敬清寂、茶三昧を生かし、お茶の心をもって暮すことが大切なのです。

この心の働きが牛を常に離さないように「鞭撻」しているというのです。

正念相続して、日々是道場、互いの心や仏性を離さないようにしていく工夫をしなければ、牛はたちまち逃げてしまいます。

牛を得た、やれ悟った、寺を持っている、資格を得たなどと、傲慢慢心して、口頭で悟りを語り、現実は欲にまみれているなら、とんでもない糞です。

こんなものは悟りとは言えないのではないかと思うのです。

次は頌に入ります。

精神を竭尽して渠を獲得する

精神を使い果たして、酒を飲んでも溺れない、美人やイケメンをみても欲しいとも、なりたいとも思わない。

そう言えば茶湯者覚悟十躰なるものにこんなことが書いてあったな。「酒色を慎む」と。

酒と色に溺れない。よう分かった気がする。

分別の知恵を使い尽くして、色んなものに振り回され、何も考えられない、なにも言うことはない。

何を考えていいのか、考えることも忘れてしまう。

そんな所に行きついてしまい、大馬鹿者になったものだ。そういうところに牛は居るのか。

お茶をして、分別や思料することがなくなって、茶だけに専心することを知ったが、何か心に残っている。茶三昧に徹し、有無、有無としているが牛はまだ息荒く、尻尾もピクピクしているではあるまいか。

そうだ。茶三昧をして、心は無ではなく次々と気続して点前をしなければならないのだ。

心は働くのだから、しょうがない。

心強く力壮んにして卒に除き難し

しかし、茶三昧になろうにも、気続しようにもこの牛はよく動くものだ。

今まで野性にいた分、強くすぐに逃げてしまうのだ。

その力を抑えて、除くことは難しいものだな。

牛を飼いならそうにもまだまだ困難である。

有る時はわずかに高原の上に至り

高原のほとりにドカッと坐っていると、我もなければ天地もないではないか。

とても清々しく、有難く感じる。

茶三昧に徹し、道具一つ一つに心を全集中して扱いきっていると、流れるように手が自然と次に向かっている。お茶をしていると、心が一心になる、心が晴れ晴れする、清々しい、これが茶三昧か無字三昧だな、これが自己解脱か。なるほどここには有無のみの世界、煩悩も辛苦も菩提もないのだ、実に素晴らしい。

これがお茶のある時なのか!

又た煙雲深き処に入って居す

しかし、坐るのをやめて、お茶から離れてみると、すぐにどこかに煙のように消えてしまう。

牛はまた、雲は煙の中の深いところに消えてしまうのだ。

お茶をしている時は、実に清々しく、気持ちもいいが、お茶の世界を離れるとどこかに消えてしまう。

それでもよいではないか。

茶三昧の時は本来の自己さえも忘れて、無分別、唯只管にお茶に行じて自分は有無の一つになっているのだから。

そして、牛は此処にいることがわかっているだけでまずは良いのである。

お茶も眼前にある時はあるが、飲んでしまえば無くなるのだから。

腹にお茶はあるのだ。

よし、お茶をもって深み知ろう。

以上が第四の得牛のお話であります。

牛が眼前にいるなら、ただつかまえるのみに苦心する。

消えて、逃げても追いかけ捕まえるしかありません。

牛は今まで野性で暮らしていました。つかまえようとすると暴れるかもしれません。それでも励むしかないのです。

そして、鞭打てば反発するでしょう、痛がりもするでしょう。

しかし、厳しく接しなければ牛は飼いならすことはできません。

牛を得ることを世間では「悟り」ともいうようですが、悟りに振り回されているうちは本物ではありません。

また、見牛でも申し上げましたが、悟りを悟りとしてかためて、それに執着してしまうと、それは「悟り臭いだけの糞」でしかありません。

悟りさえも忘れ捨て、悟りさえも一歩進むための手段として大いに使用する。

それが肝心なのではないでしょうか。

さとらぬもさとりもおなしまよひなり

さとらぬさきをさとりとぞいふ

これは、一休さんの歌であります。

悟らぬことも、悟りも同じ迷いである。悟らぬ先を真の悟りという。という意味になります。

なかなか頓智でありますが、「先の悟り」を知れるのは自分だけであります。

そして、それは臭いものではなく、有るようで無いもの。無いもので有るものなのです。

ある禅者は真理の洞徹についてこのように申しています。「実際に喉が乾いている時、終始、水のことを語って、何の役に立つ。火について如何に多く議論しても、決して温かくはならぬ。仏教も儒教も「心」の何たるかを明らかにするが、「心」が日常生活に輝くようにされなければ、その真理を本当に洞徹しているとはいえない」と。

茶三昧に徹し、自分を律し、そこに輝く真心を生かす。

悟りも目覚めたものも上手く使うところに人として、茶人の真価は現れるのです。

お茶は皆で共に織り成すからこそ、茶世界は美しく、心地よく成立します。

決して一人よがりに事をしてはいけないのです。

みんなで和顔愛語、和敬清寂を尊び、茶三昧に徹する。

自分だけが。という心は戒めなければいけません。

そして、茶世界に俗世の塵や埃を持ち運び、崩してはならぬのです。

独りよがりの心は茶世界も壊しますし、人を傷つけるものです。

だからこそ、本来の面目、牛を得ることが大切なのであります。

お茶を行い心が高まり深まる中から忽然と現れる牛をしっかり得ること。

牛を得たらそれを逃がさない様にしっかりすること。

これらの心の踏ん張りどころを先ずは稽古の中、見出すことが肝心なのです。

堀内宗心宗匠もご著書の中でこのように申しています。

「お茶の点前は、自分の身体の隅々までを意識して制御している間に、ひょっとして、自己解脱につながる契機ともなるのであります。自分自身の身体を律することこそが必要なのであります。」と。

次のお話は「牧牛」であります。

手綱をつけた牛を上手く扱えるのでしょうか。

合掌。

牛は得難き 彼方此方行かん

忽然消えては又現れる

もー逃がさんぞ 手綱を引け 牛を引け

佐々木宗芯

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