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十牛図のお話 十「入鄽垂手」

はじめに牛を尋ねる旅に出てから、牛の足跡を見つけ、牛を見つけて、その牛を苦労して手に入れて、牛を上手く手慣らし、牛にのり自分の家に帰ってくる。

帰ってきたらその牛をすっかり忘れてしまい、自分のみが残っている。

そうと思ったら牛のみならず自分さえもともに忘れてしまった。

丸くは丸くなく、丸くは丸いまま。柳は緑に花は紅なるまま、全ても天も地も本源であると徹する、徹すると思う必要もありはしない。

あるがままはあるがままでしかない。

そして‥‥入り至る。

人の本源とは何処ぞにあるのか。

それは「はじまりの本源」にあると答えは返ってくるでしょう。

はて、難解な。と思うかもしれませんが本源とは本の源と書きます。

宗を知りて、また中心を知る。

中心を知りて、そこに還る。

山は山であり、水は水でしかない。

それと同じくして人も人でしかない。

人がこの世に生まれた時、本源というものも同時に生まれてきます。

人としての生きることのはじまりが本源でもあります。

人の中に入っていくのです。

そして、主人公としての物語がはじまるのです。

十牛図の最後の章である入鄽垂手には布袋和尚という人物が出てきます。

この人物の実体は謎に包まれており、はっきりとは分からないとされています。

極めて風采を構わない男のようで、見た目は異様な風貌をしていました。

額は狭く、腹はどっぷりと大きく、耳たぶが垂れている。

粗末な服装をしており、いつも袋とムシロと杖を持って歩いていたようであります。

気の向いたところで寝たかと思えば、何かを貰うと袋に入れて、子供を見ると全て渡していたようです。

こうして民衆の中に入って、溶け込んでは話したり、遊んだりをしていました。

しかし、いよいよ遷化する時に、岳林寺という寺の廊下の端の上に坐禅をして、偈を作ってなくなりました。

弥勒 真に弥勒 分身千百億

時々に時人に示せども、時人自ら識らず

この布袋和尚は自分の立場や身分を忘れ、自分のことさえも捨てて、民衆の中に飛び込んで身を同じくして衆生済度をしていたとされています。

このようにして布袋さん。という愛称で現在でも慕われているのです。

さて本題に入っていきましょう。

法華十双権実の注には「体・用については、修行覚道し、悟りの根源を知ることは、体である。修業後に悟りを身に着けた者が、迷いの世界の中で人々のために尽くすことが、用である。例えば、体は大地のようなもので、用は体に帰する。権(方便)は実に(真実)に帰する」と書かれています。

本源を知るということは体を持ったということでもあります。

ひとたび悟りというものを身につけた者は、悟ったことをすっかり忘れ去り、悟り臭さも拭い先へと先へとまっすぐ進んでしまいます。

悟りとは主人公としての光を持つための道具でもあり、照らす手段であって、眺める対象ではないのです。

その光を持って辺りを照らし、ただひたすらに道を進むのです。

そして、その光を迷っている人にも渡して、照らしてあげる。

また、時には悟りを燃料にして用いてしまうのです。

方便を持ってして、実に返す。ということなのです。

以前もお話ししましたが。

国の宝とは、道を求め、世のため、お人のためにとただひたすらに善を求め、周囲を明るく照らす人間性やその方法を求めていく人こそ国の宝なのであります。

また、お人を和顔にして喜ばれ頼られる人はかけがえのない国宝なのです。

その人がいるだけで自然とニコニコしてしまうのです。

社会の世の片隅でそれを成そうと励んでおられる方は、この世に多くおります。

比叡山の開山・伝教大師はこのように申しています。

国宝とは何ものぞ。

宝とは道心なり。

道心あるの人を名付けて国宝となす。

経寸十枚これ国宝に非ず。

一隅を照らす、これ国宝なり

只管に道を求めて、自分のことを忘れて、世のためや、一人のためにと奉仕できる者こそ、真の「国宝」ではないでしょうか。

お釈迦様の言われた「己こそ己のよる辺」とは己の字が意味するところの自分自身というのみならず、それぞれの己という皆のよる辺になることを示しているのです。

「己のよる辺にみなもよるべ」と。

真の主人公が覚醒した時、命は完成して、魂は完全となるのであります。

それと同じくして、魂が完成した時に命は完全を迎えるのです。

この二つが一つに合わさりなったところに完という光が出てくるのであります。

そして、自分の身を持ってして、周りの人を救っていくことができる。

和顔に導くことができる。

ここに真の主人公としての物語が始まるのであります。

ここに真の主人公として立っておるのです。

では、十牛図の最後のお話しです。

前回と同様に序と頌、訳をのせてお話しします。しかし、少しいつもとは異なります。

入鄽垂手 序

柴門独り掩うて、千聖も知らず

自己の風光を埋めて、前賢の途轍に負く

瓢を提げて市に入り、杖をついて家に還る

酒し魚行、化して成仏せしむ

入鄽垂手 序(訳)

庵の戸を閉めて独り住んでいるから、どんなものにも、聖人にも気づかれはしない。

悟りのくさい匂いなどはさらさらなく、昔の賢き禅僧の行いを見習おうともしない。

酒の入る徳利をぶら下げて街に出かけて、杖によっては庵に帰ってくる。

酒屋や魚屋に入っただけで、そこにいる人が皆仏のようになってしまうのだ。

入鄽垂手 頌

胸を露わし足を跣にして鄽に入り来たる

土を抹し灰を塗って、笑いあぎとに満つ

神仙真秘のけつを用いず

直に枯木をして花を放って開かしむ

入鄽垂手 頌(訳)

胸のうちもあけ、足も素足のまま街の中に入っていく。

土や灰がついていながら、ニコニコと満面の笑みを浮かべる。

仙人や神の如く神秘の力を使わずともここにいる。

枯れた木たちにも花を開かせ、放ってみよう。

 

十牛図の最後にあたる「入鄽垂手」は世俗に入り、手を垂れて皆を救っているところにいます。

牛を忘れ、自分を忘れ、いなくなってしまった。

しかし、そこに忽然と布袋和尚が出てきたのです。

前の返本還源ではあるがままの世界、主人公として崇め奉られる世界、諸法実相の世界であり、極楽浄土、理想郷であった。

ここに人は至りたく、苦労して修業しているのだが、そこから還相回向して出てくる。

ある禅者はいいました。

「極楽というところには久しくとどまるべきではない。とどまってもしようのないところだ。ありがたいかしらんけれども、ありがたいだけでは何のためにもなりゃしない。ただ自己満足ということになる。それだから、どうしても極楽を見たらただちに戻ってこなければならない。還相の世界へはいらにゃならん。」と。

絶対の境界に入って、そこから出てくる時には全くの別人である布袋和尚になって現れる。

これを「入鄽垂手」ともいいます。

有が無になると、無から新たな有が出てきます。

道を求めて修業をして、無字三昧、茶三昧になって見性すると、一の円相が忽然と完成します。

忽然と大悟すると、見るもの聞くものはことごとくすべてが無字の如くなってくる、山は山、水は水と全てが無字。

そういう境地を透過して出てくるものが、前の童子ではなく、真の童子。

まったくの別人である布袋さんが出てくるのです。

時や場所により変幻自在に形を変えることができるのです。まさに大自在。

ひとたび透過すると南北東西に活路通じて、何処へでも行けるのです。

高熱の溶鉱炉に鉱石を入れて、ドロドロに溶かすと、そこからは洗練された立派なものが出てきます。

この溶かすところが、一円相であります。

すっかり空っぽになり、上手く磨かれ切ったところなのであります。

そこから出てくるともう元の童子ではありません。

還相回向の時には立派なものになっている。

空が満ちているのです。

挨拶文でも述べましたが。

茶の道も心の道も一心愚直に進むべし 

いずれは菩提の道へと至るなり

己が身を捨てて与えて細なれど 

満ちる心は成就

であります。

一章から骨を折って修行してきた童子でありますが、最後となるとたちまち立派な人がここに出てくるのです。

古人の歌に、このようなものがあります。

「人をのみ渡し渡して己が身は岸にのぼらぬ渡し守かな」

あなたを皆さんを彼方に渡しましょう。

私は一生船の中の渡し守で結構です。とするその心がすでに救われ渡っているということなのではないでしょうか。

もしくは、先に渡って帰ってきたのかもしれません。

ここに人としての光明があるのです。

隣をおもい、隣と考えない。

分け隔てなく明かり照らし、ニコニコと接する。

そんなところに布袋さんという人物が宿っているのです。

では、「入鄽垂手」の序と頌を見ていきましょう。

柴門独り掩うて、千聖を知らず

この道に徹した心境というもの、本物の悟りというものは自分自身だけしかわからないものであります。

自分の家の中のものが他人にはわからないように、千聖だろうと、お釈迦様、達磨といえども窺い知れぬものなのです。

誰も窺える余地のない境地なのです。

人の心というものは無限の世界なのです。

その無限の世界を窺うことなど人にも、神様、仏様であろうとも不可能なのであります。

たとえ全知全能の神であろうと、お釈迦様でも、仏様であろうと神様であろうとご存じない世界を人は等しく持っているのです。

何もない空っぽの世界を何人も知ることができないのです。

本来は空なのであります。

満ちているのです。

何もないような、きれいな一円相。

この清浄無垢な心がわかっても、悟っても、わかった顔をせずに、もとの本源にかえるのみ。

愚かと知りながら、愚かさに返る。

和光同塵、光を和らげて塵に同じようにする。

光が強すぎるとなにも見えなくなります。

程よい光にするには塵と同じくしなければならないのです。

この立派な悟りを開きながらも、悟ったこともわすれてしまう。その立派さも忘れる。

こんなところが柴門の独り掩う。

立派な悟りを開いても、立派なところがわかっても、悟り然とした顔をせずに、愚かに返り、人になり、何も知らんという顔を自然とできる境地なのであります。

茶を行ずる人は大愚でなくてはならないのであります。

たとえ歴があり、学があり、法を悟り知ったとしてもひけらかさず愚かにならなければならない。

茶を点て、茶を飲む、皆ともお茶を分かち合う。皆で笑い合う。それで結構なのです。

これが茶人の行く道でなくてはならない。

茶の菩薩の道を歩むということなのです。

自己の風光を埋めて、前賢の途轍に負く

このようなすぐれた絶対の境地を体得していながら、その高い境地を忘れ去り、侘しき衣に身を包み、町の中へと、民衆の中へ入って行くのであります。

山居のような静かさがあり、そこに安らぎを覚えられる場所にお茶が生きているのです。

市中の山居という言葉もあります。

あくまでお茶は市中で生きるのです。

賢き者、高僧知識、祖師方のことを前賢というようです。

そういう方々が歩んできた道やレールを途轍といいます。

その道にそむくということです。

昔から高僧といえば、緋の衣を着て金欄の袈裟をかけて、行すまして、お高いところから提唱だ、講座だといって衆生済度をしていますが、そういう決まりきったあり方は面白くないと反抗しているのです。

現在でも身を派手に着飾っているお坊さんはたくさんおられます。

その普段は立派に着飾ったお坊さんも時々にあわせ説法などといい、わざとらしく身をボロくして、お高く悟り然となさっておられるが、実は高級、誰よりも裕福となれば悲しいものです。頭をかしげてしまいます。

お坊さんといえば、こうだというイメージが壊れてこその道であるように思います。

それと同時に身も心も立派なお坊さんもたくさんおられます。

悟り臭さもなく、最低限の生活でよしとし、作務につとめ、衆生済度を任務としているお坊さんに頭がさがります。

瓢を提げて市に入り、杖をついて家に還る

瓢を一つぶら下げて、飄然、飄々としながら町の中に入っていきます。

そして、疲れたらその杖によりついて家へと帰っていくのです。

このような境地が布袋和尚の境地といえます。

茶箱を携えて、町の中に入り、お茶でも点てて、みなと飲めばよろしいのです。

疲れたら家に帰ればいいのだから。

分け隔てなくお茶を一服。

酒し魚行、化して成仏せしむ

酒屋にいき、魚屋に行っては皆々と一杯やって、心が安らか。

塵を払い、衣も袈裟も脱ぎ捨てて、真っ裸になって民衆のなかに飛び込んでは、顔を見るもの、一緒にのむもの、皆を満足円満にさせてしまうのです。

皆に安心を与えて得させてしまう。

町の中のみんなが感化されて、悟りを開いてしまう。

このような生き方が布袋和尚であり、十牛の目指す理想なのであります。

立派に着飾り、悟り然とした顔にすまし、ゾロゾロと大名行列するようではいかんのです。

何もかもすてて、真っ裸になり、町の中へと、みんなの中へと溶け込んで、皆々と一緒に泥だらけ埃だらけになって暮らしていく。

そしてそこに触れられた人が皆、仮面を一つ一つはずし、救われていく。輝いてくる。

それが入鄽垂手なのです。

ある禅者はもうしました。

「人間の真実は真裸になって始めて見えだす」

人間の持っている本来の真実とはもう一度真裸になってはじめて見えてくるのです。

一つ一つと行ずることですべてを成しているのです。成功しているのです。

生きていること以上に価値はないのです。

もっと無尽蔵に生き尽くせばよろしい。

くだらないものをいつまでも抱え込む以上に勿体ないものはないのです。

永遠の生命などありはしません。

日は新たになり、また日に新たなる時間や年々と過ぎいくとき人も花も同じからざる時間なのです。

この移り変わりがやまざる時間の中に生きているということ、そのことが永遠の命の活動をしているというのです。

人はこの一刹那の中で生き尽くせば、一生を満たされて終えることができるのです。

互いを拠り所として生き尽くせばよろしい。

刻々と迫る時さえも空間さえも超越して、空で精一杯たのしみやればよろしい。

それこそが永遠の世界の完成であるのです。

皆が救われるということなのです。

胸を露わし足を跣にして鄽に入り来たる

土を抹し灰を塗って、笑いあぎとに満つ

胸のうちもあけてしまい、何もかも剥き出しだ。隠すものなど何もない。

この衣とていらん。真っ裸でよいのだ。

レッテルもレールもことごとくいらない。

足に靴もいらない。靴が歩くのか。靴がなければ歩けないのか。

いや違う。私が歩くのだ。この足がひとり歩くのだ。

この身を着飾ることなく、何も持たず、こころ真っ裸にして歩き、新天地や町へと出かけよう。

あまりに荘厳で立派な悟りきった顔していると、皆が怖がり近寄ってこないから、修業のできた顔もせず、学のある顔もせん。

顔や身に泥や土を塗り、灰をかぶったような、大馬鹿者になってニコニコと笑っておこう。

満面の顔、は満に満ち。顎が外れるほど大笑いしよう。

そういう笑にふれて、皆が笑い、善が照らされている。

真心に返る、童心にかえり、善性を自覚するのだ。

説法せんでも、このニタニタ顔を見れば皆が救われる、笑顔になる。

持っているものすべてを分け合い、敵視もせずに皆と笑うのだ。

心から大笑いしようぞ。

生きていることに笑おうぞ。

みんなで笑おう。みなで踊ろう。

皆で飲もう。

神仙真秘のけつを用いず

直に枯木をして花を放って開かしむ

何も神や仙人のような神通力を人に使わなくても、この持っている灰で花を咲かせよう。

花咲爺さんのごとく、ニコニコと笑い、花を満ちさせよう。

人の心に花を咲かせよう。

こうしてニコニコと笑うだけで、心の疲れたひとも、荒んだ人もことごとく人生の光を発見できる。

荒んだ大地に種をまき、いつぞは花園。

奇跡を説いて、救うのではない。

ただ笑い、ただお茶を点て、皆と飲むのだ。

一緒に楽しむのだ。誰に説教するでもなく、誰に意見を通すでもなく、みなとニコッとする。

触れ合うもの、付き合うものがみなして丸く、笑うのだ。

枯木に花を咲かせましょう。

心に花を咲かせましょう。

人生は一度きり。しかめ面より笑顔の多い人生のほうが豊かではないか。

私は笑う、あなたも笑おう。この人生に。

以上が第十話にあたる入鄽垂手であります。

これで十牛図のお話は最後です。

帰るべきところはここなのです。

あなたの居場所はここなのです。

やっと世界は結ばれました。

生きていること以上に価値のあって立派なことはないのであります。

生きている時に何を成すのか、自分のあるべきようを知ることは大切なことなのです。

ひとつニコニコとするだけで周りの人もニコニコとしたいつも笑顔のある老人のお話をします。

その老人は常日頃より周りの人、家族に感謝に尽くす心と行動をとっておりました。

毎朝はやく起きては、昇る太陽に合掌をして「今日もお天道様、ありがとうございます」と感謝を告げていました。

若かりし頃、夫の余命がないと医者より告げられた時、寒さこたえる日の中、お百度参りをして「私がこれから生きるであろう寿命のうち十年を人々や家族に尽くしている夫に差し上げてください。」と神仏に願い、その夫は十年に近い日を生きました。

ある時、ひ孫が生まれた時には「生まれてきてくれてありがとう。私に最大の幸せをプレゼントしてくれてありがとう。」と言いました。

そして、老人は自分で何かをするにも大変苦労のある中、そのひ孫が泣けば、紐で結び抱いて散歩してあやしていました。

そのひ孫が「おばあちゃん、おばあちゃん」と呼ぶ声を録音したぬいぐるみに命が切れかける最後まで笑顔で「はいよ」と答え続ける慈愛とニコーッとする顔を持っていました。

自分で身体を起こすことも、話すことも無理なほど、命の灯火が消えかけていた中、ある人が来ることをずっと待ち続けていました。

周りの人も何を待っているのか不思議がっている中、その人物は訪れます。

その人とは娘の夫であります。

自分がお世話になった娘の夫が病室に入ってくるとゆっくりと体を起こし、その夫に向かい合掌をして「かくさんのおかげさまで、今日まで幸せに暮らすことができました。ありがとう。ありがとう。」と言い、命の灯火を自ら消しました。

この老人とは私の曽祖母であります。

そして、曽祖父が生きた十年に近い年月で生を受けたのが、祖母であります。

今でも多くの逸話を聞きます。

布袋和尚は市中へと飛び込みます。

お茶人も市中へと飛び込まなければなりません。

それと同じくしてお茶をなすものにとり大切なことをもう一度申し上げます。

お茶の道に覚悟と志を持ち歩んでいる者は以下の三つを実践しているか否かが肝心ではなかろうかと私は思っております。

一 茶湯の道に只管精進していること

二 茶の湯を成し遂げようとすること

三 茶三昧に勤めていること

三つのことのうち一つでも一念発起して今に実践しているならば、茶はすでに成就しております。

関連する言葉を引用します。

「三昧とはどういうことか。それは、思いを専一にし、相を寂にすることである。思いが専一ならば、志は一つとなり別れることがなくなる。相が寂ならば、気は空となり、精神は明朗となる。気が空ならば、智は安定し、ありのままの本来の姿が見えてくる。精神が明朗ならば、どんな些細な道理にも透徹する。この二つはそのまま自然の哲理であり、一つとなって作用するものである。」慧遠法師の『三昧詩集序』より

分かりやすくするため、思いを自や主観、相を他や客観に言い直しても良かろうかと思います。

また、以下の5つのこともお茶を成している者にとって大切な心ではないかと私は思っています。

一 「私はお詫びするほどのことしか貴方様にできませんが、お茶でも一服ご一緒にいかがでしょうか」とする茶布施の心

二 お相手さまや全てのものの大恩に感謝尽くす心とそれら大恩に報いる心

三 全てを慈しむ気持ちと善行を成さんと励む前向きな心の働き

四 常にこころを調えて一直心に今に行ずること、如何なる人にも自分にも一心にお茶を点て、しあわせ喜ぶ心。

五 四つを成就させるために自も他も忘れ、有無さえも超越し、現成受用する空の心

このような心がけは日常や市井の中において発揮されるものであります。

拈茶微笑を芯とし市井の中を只管歩んでいる「一人の茶人」で私はいたいと日々願っています。

仏教詩人の坂村真民先生の「こころ」と「限りあるいのちを持て」という詩を繋げて紹介いたします。

こころを持って生まれてきた

これほど尊いものがあろうか

そしてこのこころを悪く使う

これほど相すまぬことがあろうか

一番大事なことは

このこころに

花を咲かせること

小さい花でもいい

自分の花を咲かせて

仏さまの前にもってゆくことだ

限りある

いのちを持ちて

限りなき

いのちのひとを

恋いたてまつる

いきとし生けるもの

いつの日か終わりあり

されど

終わりなきひといますなれば

一日のうれしかりけり

一生のたのしかりけり

人の心の中には無限に広がる大地やお空があります。

その大地に何を咲かせ、育むのか、お空には何を浮かべるのか。

それを決めるのは自分自身であります。

大地が枯れてたままでは、花や草木は一生咲かないでしょう。

お空が暗いままだと、花は育たず、歩むべき道も真心の在処もわからずいたずらに日々を過ごしてしまうでしょう。

大地が枯れたなら「私を」清い水にして注げばいい。お空が暗いなら「私が」輝けばいい。

こころを善き方へと前向きに生かしつくすことで、生まれたときに手に持っていた尊い種を見つけることができます。

いや、その手に持っているのに持っていないふりをしているだけかもしれない。

気付いていないのかもしれない。

こころの中にある種に気付かなければ、花は咲きませんし、種の意味もありません。

また、外に種があると思い外にと人にと種を求めてしまうことをこころの迷いとも申します。

ふっと今の私を見つめてあげてください。

こころの中にいる尊い真人の私はどんなお顔をしているのか。布袋さんのような私はどこにいるのか。

花を咲かせましょう。花を咲かせてあげましょう。

人は生まれたとき、純粋無垢で愛に幸せに善に満ち溢れていました。

つかえるかのように家族が周りの人が見守ってくれていたから、多くの愛情を注がれたから、その時の自分は満面の笑顔を通じて愛を家族や周りの人にお返ししていたのです。

そのお互いの繰り返しがまた幸せを生み続ける。

しかし、いつしか悪意が育ちすぎ、善意が弱まり退けるようになってきます。

それほど、悲しいことはないではありませんか。

皆が尊く、和やかで幸せでいてよい存在なのです。

幸せという言葉は「仕合わせ」とも言われています。お互いにつかえ合うこと、支え合い助け合うという意味になります。

決して一人では生きられない人間は多くのお陰様によって生かされているのです。

だからこそ人と人がお互いに支え合うことによって、喜びを感じるのです。それが本来の「幸せ」の形なのではないでしょうか。

だからこそ自分だけ孤立して悪意に染まって見えてしまうほど悲しく、苦しいものはないではありませんか。

悪に酔ってしまったのは状況や縁が悪かっただけ。

こころの中にいる真のあなたは何も汚れ染まってなんかいません。

汚れた仮面をつけ続ける苦労それに先ずは気付いてほしいと切に願うばかりです。

仮面にひびを入れられるのは仮面のうちにいる、本当の私です。

どんな人も一つ発心あれば人を笑顔にして、頼られる世の宝になれます。

それができている自分がいるということは、真の宝を手にした満ちて成功している私がいるということです。

そして、それらが実りある人生をつくる生きがいにもなったりするのではないでしょうか。

そんな宝に溢れるような世の中に、和顔愛語の人々に溢れるような美しい日本でいて欲しいと願うばかりです。

今日も無事に和顔と愛語。

以前も申し上げましたが、最後に宗祇、肖柏、宗長ら三人の連歌集「水無瀬三吟」より私が北茶に持ち続けてほしいと願う心、お茶の意をお伝えします。

97番目 山はけさいく霜夜にかかすむらん 宗長

98番目 けぶり長閑に見ゆるかり庵 肖柏

暗く霜の厳しさ有る山の中を歩く者は前を向けば霞む視界に参っていた。

ふっとその者、顔をあげると、そこには煙が立ち上るどこか懐かしい庵が目についた。

何故だろうどこか長閑な場所に感じるなと思いながらも、霜で冷えた体暖めようと庵ににじり入り、そこにいたのは笑顔で迎えてくれる一人の茶人であった。

茶人は何も聞くわけでもなく、ただその者に手を拈り微笑を湛えお茶を点て差し上げるのであった。

すっかり心も体も温かくなったその者はまた、厳しき霜夜の中に戻るのであった。

また此処をいつでも尋ねることができると分かっているから。

私にはお茶がある

あなた様にもお茶がある

みんなにもお茶があり

みんなそろって茶を成就した

それで良いではないか

合掌

我の茶や茶仏滅し闇晴れて

心の空に侘びの心月

佐々木宗芯

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