自分の思うところに牛がついてくるようになり、その牛に乗って家に帰るところであります。
牛に乗ってばかりで地に足を着けずにいると、ミイラ取りがミイラになってしまいます。
自分ばかり悟り然としていると、存在が意味のないただ神々しいばかりのものになってしまいます。
お釈迦様もお山に入り修行されましたが、山に籠りぱっなしでは、苦に苛まれている人々を救えんと山を下りました。
仏と人の違いは概念か物体なのかに分かれます。人は生きているお蔭様や天地一体なることを体得したのなら、立派に務めを果たさなければ意味のないものとして一生を終わってしまいます。
自分を得て、生死さえも超えてくると、無常の世界がでてきます。
その無常の世界にいてばかりでは真っ暗闇の中の意味のなきものでしかないのです。
ひとたび見性してくると無常の世界に入り込みます。そのうちに自らの新たな発心とともに命の灯が煌々としてきます。その光が照らした実相の世界が世界の真の姿をあらわにするのです。
その心が輝き放ち照らす場を生活の世界観の中に落とし込むことで涅槃寂静が現出して、かのもの我が浄土と化すのであります。
もとの場に帰り、我が心を還すことをしないようでは本物とは言えないのです。
山是山水是水という極々常識的な世界をいっぺん疑い、山は山ではなく、水は水に非ずとなりました。その次に訪れるのはまた山は山でしかなく、水は水でしかなかったということがわかります。
しかし、戻り見ている山は前の山ではなく、水も前の見ていた水ではありません。
萬里一条鉄、この一本の鉄で実相、無常の世界を天地さえもぶち抜いてこそ真実の姿は出てくるのです。
ぶち抜いて底を抜けたときに山は山であり、水は水である。と徹することが叶うのであります。
悟りさえもぶっ壊して、世界の概念をぶち抜くこの働きを騎牛帰家というのです。
法華十双権実の注には「体・用については、修行覚道し、悟りの根源を知ることは、体である。修業後に悟りを身に着けた者が、迷いの世界の中で人々のために尽くすことが、用である。例えば、体は大地のようなもので、用は体に帰する。権(方便)は実に(真実)に帰する」と書かれています。
体用を私と牛に置き換えるとわかりやすいと思います。
有無とは手をパチン!と叩くと無の空間から自分が有を生み出します。そして一瞬で無に消えていく。離れているように見えて、結びついて見える有無の世界は一つで二つでありながら、二つで一つであります。
自らの手でパチンと叩き、世界をぶち抜き、壊し同一にする働きに大自在の心はあるのです。
では、今回は第六の騎牛帰家、前回と同様に序と頌、訳をのせてお話します。
騎牛帰家 序
干戈巳に罷み、得失還た空ず
樵子の村歌を唱え、児童の野曲を吹く
身を牛上に横たえ、目に雲霄を視る
呼喚すれども回らず、ろうろうすれどもとどまらず
騎牛帰家 序(訳)
戦いはようやく止み。牛も捕まえるなどもどうでもよくなった。
樵子の村歌を唱えたり、笛で子供たちの好む野曲を吹いたりする。
時に牛の背中で横たわり寝ては遠い空の彼方をじっと見つめている。
彼らを呼んでも、振り向きもしないが、引き留めもしないのだ。
騎牛帰家 頌
牛に騎っていりとして家に還らんと欲す
姜笛声々晩霞を送る
一拍一歌、限り無き意
知音は何ぞ必ずしも唇牙を鼓せん
騎牛帰家 頌(訳)
牛に乗ってゆっくりとゆっくりと家に帰らんと願っている。
夷の歌が声々して奏でられ、夕暮れの霞と一つになっている。
拍子の音と笛の音が、いいようもいえない心にさせるのだ。
分かり合った者同士、これ以上何を語ろうというのか。
十牛図の中の第六話にあたる「騎牛帰家」は童子が心大人になり、牛に乗り、ゆっくりゆっくりとともに進みながら、その道なりで歌い、笛を奏でながら楽しそうにもあり、どこか遠い故郷に思いを起こしている状況から始まります。
前回もお話しましたが、再度お話いたします。
悟りを超越して乗りこなした先、その悟りさえも忘れ、ただ自分自身の本願があるところに帰らんと願うことが必要です。
自ら主となり、自らに由り、自らが在るべきところが、目的地であり、帰る所なのです。
牛とともに自らの本願や帰るべきところをまずは自覚しなければいけません。
その本願とは自分が生きる意味とも、自分の存在意味、本当の自分の価値が発揮されるところとも言い換えることができるのではないかと思われます。
そして、帰るべきところとは真心が本来あるべきところであります。
今までは悟りについて私たちは問いて、考えていました。そして、悟りそのものに問われていました。しかし、これからは悟りというものに自ら答えを与えて使用しなければいけません。
そして、悟りそのものの問いに答えて、悟りの意味を与え深めて超えて、人生というものを生き尽くす。
そのためには本願というものに最終的には帰らなければいけないのです。
ヴィクトール・フランクルの言葉を引用します。
「生きるとは、問われていること、答えること。自分自身の人生に責任をもつことである。」
「我々は世界に通じる道を辿ってのみ自分の自我に帰るのである。我々が自分の不安から自由になれるのは、・・自己放棄によって、自己を引き渡すことによって、そしてそれだけの価値ある事物へ自己をゆだねることによってである。それこそあらゆる自己形成の秘密である」
フランクルは我欲に操られる自己中心的な自己そのものや自己主観を放棄をして、それをするだけの価値ある事物に自己を素直に委ねることによって、人格を深め、内的な面においての成熟や完成を果たし、真の意味ある自己形成を生じさせるということ。そして、それらの働きが自己の価値を高めるということを示しました。
また、意味さえも超える「超意味」ということを示しました。
わかった本来の自分自身に今の自己を素直に引き渡し、世界にゆだねなければいけません。
また、本来の自分も今の自己に引き渡し、同一化、超越して、自己そのものを世界から解脱させるという意味も含まれます。
悟りそのものの意味を超えて、元の場所に帰り、悟りの先にある「無意味の中の意味ある真価」「意味の中の無意味への真価」をかみしめることも肝心なのです。
古人は地平線の先を、大海の先を、そして、世界の先を見たいと先を目指して旅をしました。
しかし、世界は真ん丸でただ元の場所に戻るようになっているのです。
生き尽くすという中でもたらされる本当の人生への悲願をご一緒にこれから見出し、それを上手く扱ってみましょう。
では、一つ一つ、序と頌を見ていきましょう。
干戈巳に罷み、得失還た空ず
心の中での戦いが終わり、良からぬ念さえも起こらなくなりました。
今までは妄想や悪念でどうしようもなく苦しんでいたが、牛を得て、飼いならしていくとそんな心も起こらなくなるのです。
そんなものに構っていられるか、念が起こっても起こったままにしとこうと、いわばどうでもよくなるとも言えます。
妄想や妄念が去り、あれ菩提やあれ煩悩と分別する戦いが終わると、そこに無心が起こります。牛も我も仏も神もいなくなるのです。修行や悟りもぽいっと無くなります。
私を邪魔するものは「祖仏ともに殺す」という言葉もありますが、殺し続けた剣さえもフッと消えているのです。もう、剣も手綱も必要がなくなったということであります。
心の中での争いがおさまると、無心になりきった人間が無心の牛に乗り、ただ悲願に帰るのです。
もう何にも遠慮もなく、随所主となるであります。
世界そのものの主人公になれたのです。
世界という大きな御家そのものが我が家になったといえます。
お釈迦様が天と地を指差し、天上天下唯我独尊と言われたのも、悟りをひらき、世界の主人公になれたということなのです。
どこにいってもその主人公の神々しいお光をしたい、多くのものがお慕いにくるということになられたのです。
ゲームでも主人公には不思議と多くの仲間がくる現象と同じとみてもよろしいと思います。
そのように、随所の主になり、無心の人間が無心の牛にのって悲願にただ帰っていくのであります。
樵子の村歌を唱え、児童の野曲を吹く
仕事をしている時にフッと鼻歌を歌っている自分がいます。そうこの時、無心になっているのです。もう小難しい無心なる概念を考えなくてもよろしいのです。
ある禅者も何も考えず「滅茶苦茶に働くことが人としての深みをもたらす」といいました。
名曲や良い歌、流行歌など気にせず、好きな歌を奏でたらいいのです。
世界の主人公になったのだから、何者にも遠慮しなくてよろしい。
自分が楽しみ、ひとつ子供のように純粋無垢に素直に遊べばよいのであります。
遊戯三昧で楽しもうではありませんか。
大人の子供のように「でーきたでーきたおまんまできた、できたできた稲作豊年」と無邪気に喜べばよろしい。
身を牛上に横たえ、目に雲霄を視る
この無心になった身を無心の牛にゆだね、帰るべきところに連れてってもらうのです。
有心により道に落ちたり、田んぼに落ちたりとしたが、そんなこともなくなるのです。
牛に行先をまかせ、ただ眼を見開くとそこには広々とした雄大なお空が我のもとまでかけてくる。
この空をたた眺めるだけで、他に映るものもなく、見るべきものもないから悪念は起こらないのです。お空の美しさがあるのみです。空成就であります。
人生の終着点は自らが世界の主人公になり、空の世界を上手く創造できることです。
それも叶っている状況であります。
山の頂にのぼれば、もう疲れることも、汗もかく必要がありません。
山の頂から下る道でのぼる者に「これ、これ頑張れや」と声援をおくり、活力を与えるのです。
天下ひろしといえども、何も求めるものはありません。
何もかも求めずとも、向こうから叶えてくれる。
求めなくてもほいほいとすべてが手に入る。
そんな境地になれるのが「騎牛帰家」であります。
呼喚すれども回らず、ろうろうすれどもとどまらず
もうあの頃の我が呼ぼうにも、振り向きもしません。むしろそんな過去の私などいないのです。
分別の世界が我を引き留めようとしても、妄想が我を落とし込もうとしても、そんな下らんものに振り向きはしない。
そうといっても、無分別や絶対的平等、無一物などの意味にも縛られたりはしない。
我は我でしかなく、その我も私を縛ることなどできないのだ。
妄想や悪念、分別の知恵、平等概念、天地さえも、過去の我さえにもとらわれず、さっさと家に帰るのみであります。
何にもとらわれない大自在をここで得ていくのです。
こういう境地になり牛に乗りこなしているということになるのです。しかし、よそには行きません。悲願にただ帰るのみ。
牛に騎っていりとして家に還らんと欲す
ただ牛に乗り、家に帰りたいと願う。その本願成就。空成就。
悟りさえもくだらん、そんなもの求める心もなければ、煩悩を祖仏を切ろう、退治しようという心配もないのだ。
一切の念を捨てて、裸一貫で帰るのだ。
この世に憎きも可愛い、美しいもありはしない。いつも無心で誰にあっても、何をみても初めてみたような気持ちになる。
こんな豊かなゆったりした気持ちで、牛に任せておけば、どこに行こうが我が家なのだ。
そう牛に任せて、悲願にただ帰るのだ。
姜笛声々晩霞を送る
私は牛に背に乗りただ何も考えず楽しく笛を奏でるのだ。下手で「ピーピー」でも空が満。
いい気持ち、清々しく、家に帰るのみ。
笛の音が山々に木霊して、霞が周囲の林に万来する。まるで霞と音がひとつの世界を作っている。
美しく夕暮れがそこにうつる。
菩提も涅槃、極楽地獄もういらん。生死も涅槃寂静もいらん。
一拍一歌、限り無き意
自ら手拍子を奏で、自ら好きに歌い、実に長閑でよい気持ちだ。
心の中がさっぱり朗らかな気持ちだから、自ずから明るく陽気な歌が限りなく口から出てくる。
知音は何ぞ必ずしも唇牙を鼓せん
この牛、よく自分を知っているものだ。
昔は言うこと、鳴くこと正しくてイライラもしたが、今になってはここまで我の心を知っているものはいまい。
お互いに心通じているから言葉など言い合わなくても、何も唇をわざわざ動かさなくてもいいのだ。そんなの必要がないくらい分かり合った仲になった。
知音同士なら口で理屈を言わなくても、顔を見ただけでわかるのだ。合掌と。
同じところの仲間なれ。
以上が第六の騎牛帰家のお話であります。
ある禅者はいいました。
「禅の要求するのは、我々が生きていく上において、或る確かな自覚の経験をもつということである。この自覚が我々人間を他の形の生物から質的に違ったものにするのである。そしてこの自覚にこそ、我々が千差万別であるにもかかわらず、平和の究意の住処を見出すのである。」といいました。
また「自主自立の獲得に最も必要なことは、自分の行為に対して責任をもつことである。」と
平和とはなごやかなことを示しています。
自ら目覚めることで無事安心、平和な世界が訪れるのであります。
他でもお話しましたが。
臨済録には無事是貴人という言葉があります。
お茶では平穏無事に過ごしている人は貴人である言われますが、無事の意味をもっと深く探究してみましょう。
無事とは、外に求める心がピタリと止んだ時であると説かれています。
私たち人は外に求めるものが非常に多くあります。それは、財産や知識、教えであったり、幸せであったり、愛情など、さまざまなものであります。
茶道の稽古・修行であれば、お茶とは何かを追い求めます。
求める心がピタリと止むとは、無理に追い求めようとしないことではなく、求めなくても十分に満ち足りている私に気がついてあげることです。
臨済禅師は「求心やむ処、即ち無事」
外に向かって求め回ることをやめて、足りていることを知れたなら、即時に無事、大安心であるということです。
私の家の三友庵の教えには「本を無為とし常に茶の道をなして他がためをなさん」というものがあります。
外に求め回ることをやめ、一切のはからいの心を捨てて、何もしないという無為こそ無事安心を知る法であるということです。
生き尽くす尊さ、生きている有り難さ、生かされていることを知れたからこそ、無事安心な境地が生まれ、穏やかな心と顔でお茶を点てられるようになる。
また、足るを知って、現成受用、只管精進に尽くすこともお茶を成すものにとり大切なことではないでしょうか
しかしながら、足るを知るには、足らぬ自分を知ることから始まります。
私はこのように思います。
生きているのはおかげさまがあるから。
生きているという真実は何よりも価値のあること、そして生かされていることに気付き、私を生かしてくれている、この世に、人に感謝を伝えて報いてこそ、貴人であると。
外に求め回りはしないが、外に出て一人一人の和顔と無事を願い、感謝報いる。それが無事是貴人の本来の姿ではないでしょうか。
私だけ良ければ善とするのではなく、和顔と愛語、無事安心な心を人にも伝え回ってこそ真の貴人であります。
幸せとは生きているから、感じられます。
迷いの渦に埋もれてしまっている、幸ふものを掴み取ることができるのは、自分自身です。
そして、幸せとは案外身近なところに隠されているものです。
お茶を通して、それに気づき、平常で無事穏やかな幸ふ心を見つけられる人がたくさん現れますように切に願っています。
そのためには、亭主と客というともに世界の主人公でありながらも、実相の世界に「無」を一字つけた無賓主なることのお茶の意を知らなければなりません。
ただ「火炉頭無賓主」であるのです。
また、真の世界の主人公とは自分を常に磨き続け、不断の努力をし、無限に至り尽くせない、得ない完全なる自分を追求するということに主人公としての真の格が生まれるのであります。
心一つ、身が一つで無事なることを、安心なることを、そして、大自在なることを、分かったのです。
次のお話は「忘牛在人」であります。
牛を忘れるとはどういうことなのでしょうか。
次のお話は自分が「悟り臭いだけの糞」にならないようにするための章であります。
ある禅者は言いました。
「終始悟りとして残るような悟りは、悟りではない。それは悟りの臭気が強すぎる悟りといわれる。悟りは、悟りそのものとなるには、悟りそのものをも失わなければならない。かかるものが悟りである。」と。
次回、お楽しみに。
宝山雑然無念と嗚呼も無く
我が身一つが宝珠なり
佐々木宗芯