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十牛図のお話 八「人牛倶忘」

悟りというものを求めて旅をしていましたが、いざ帰るべきところに戻ってみるとそんなものはないということがわかりました。人牛倶忘の章にて悟りなるものも無ければ、悟られた法なるものもないということがわかってしまいました。

悟った人もおられないということであります。

この身はあるがまま丸出し、心もなるがまま丸出しです。

山の頂に坐し、眼前に広がるは○、景色の持つ本来の姿、美しいこの世の仏性をただあーほーほーと見ているのです。

まさに修行・稽古の頂点に達したのであります。丸くとなってしまいましたなぁ。

真ん丸であります。

これがいわゆる一円相。

家を出て旅をしてまわり、家に帰る。

まわり、まわりとまたまわり。真ん丸になった。

そう世界が真ん丸であったことを、人の中に真ん丸があることを悟ったともいえます。

円なることは○にしかならず、欠けること無く余ることも無しにして、唯の○。

男女、若きも老いも、貧富の差もなければ、学の有り無しも関係ない。善悪も完成・未完成もない。

こういう世界がお互いの中に宿る悟りの真っ只中であるのです。

一円相。それが「倶忘」であります。

ともに忘れるとはなんなのでしょうか。

では、今回は人牛倶忘、前回と同様に序と頌、訳をのせてお話します。

人牛倶忘 序

凡情脱落し、聖意皆な空ず

有仏の処、遨遊することを用いず

無仏の処、急に須らく走過すべし

両頭に著せずんば、千眼も窺い難し

百鳥華をふくむ、一場のもら

人牛倶忘 序(訳)

迷いや悟りも全て無くなってしまった。

仏の有る世界なんぞに遊ぶ必要もないし、そうかといって、仏の無い世界に留まるべきでもなかろう。

このどちらにも執着さえしなければ、千の手、千の眼を持つ観音様でさえも、その深い境地を見抜くことはできまい。

たくさんの鳥達がお花を咥えてやってくるなんて話、なんとも恥ずかしい一幕の茶番劇ではあるまいか。

人牛倶忘 頌

鞭索人牛、尽く空に属す

碧天遼闊として信通じ難し

紅炉熖上、争でか雪を容れん

此に到って方に能く祖宗に合う

人牛倶忘 頌(訳)

鞭も手綱も人も牛も、みんな空に消えてしまった。

青空がからりと開けて、音信さえも通じない。

真っ赤に燃える炉に、どうして雪が降りえよう。

これでこそ、祖師の心に叶うというものだな。

 

十牛図の中の第八話にあたる「人忘倶忘」は人も牛もパッと消え、無い状態から始まります。あるのはただの真ん丸。

円に相をうつした時、それがあらわになるのです。

以前、円相についてお話ししましたが、再度申し上げます。

円相とは何を示すものなのか。

辞典などでは。

一 悟りの形象として描くまるい形。心性の完全円満を表す。

二 禅僧などが完全な悟り、心の本来の姿を示すために描く円のこと。

とあります。

円相とは世の全てであり、あるがままの素な心でもあります。

円相は見る人により形も意味も異なります。

円とはある姿を視覚によって認識可能な世界観を申します。所謂、「有る」と見ることです。

相とは構成物が本来「無」であるため世に視覚では認識不可能な世界をいいます。

所謂、「無い」と見ることです。

心の目とも無意識、自己の心の総体、無尽蔵の源とも言えます。

人は有る現実の自己と無い理想とする自己をもっているものです。

この現実と理想の不一致が起きた時に心の乖離が発生します。

円相とはこの有る無いを同体化できている状態を申します。

人と牛を例に出すと、人は牛を求めていました。求めている時はとても厳しく、苦しく、不安がつきまといます。牛はというと人から逃げようとします。この有る、無いの状況に惑わされている時は悟ったとはいえないのです。

円相の完成を果たすためには、人の姿を円にして、内にある相を牛になぞらえ同体してみることから始まります。

三種の神器の内、一つに鏡があります。その鏡は自己を映すとも、神様がこちらの心と世を覗く手段とも言われています。

相手を鏡とし、恐れず見つめてみるのです。

見つめるものとは牛であり、この世界そのものです。

そしたら相手と自分の本質が見えてくるかもしれません。その本質に触れた時に円相が見えてきます。

円は口頭で伝えられない本質を代わりにとらえてくれるものです。

円の中に何を描くのか。円をどのように満ちさせるのか。どれも人により異なります。

円相は円満でもあり。満足の象徴ともいえるからです。

本当の世界を創造するための箱ともいえるのではないでしょうか。その箱を見出したのです。

円とは宇宙であり、空、海でもあります。そこに人の相をうつすことで本質が理解され、大空、大海をも自由に回れます。一種の自己や縛りからの解脱とも言えます。

自己の解脱とは自己から沸き起こるものから解放され、自由になるということです。

牛を鞭打つことは自分を鞭打つことです。

牛を縛ることは本来の自分を縛っているということなのです。だからこそ、鞭も手綱も必要ないのです。

しかし、皆が持つ円相に共通してあるのは人の体・相・用この三つにより運用されている点があります。

体とは本体のこと、相とは本質の心、用とは働く作用性質のことです。

即ち自分の身体の中にある本質的な心を、どの方向に作用させるのかが人生を歩む上でも大切ということです。

円相の円は満ちることから、無限の可能性や心の解放を説く姿ともいえます。円満な心性の発眼であります。

円は体となり、相は心、円相ともない用いるもの。

私が昔見た不思議な夢のお話をいたします。

その日は夢の中で大空、大海を飛び回り、世界と同体化したかのように歩き、遥か昔の自分の知らない人に何かを教え、話している自分がおりました。一つ念仏のようにずっと心で唱えていたのが、「円に相をうつす」という言葉です。空を飛び回っている時も、海を歩くときもずっと「円に相をうつす」と唱えていました。起きてもずっと「円に相をうつす」と唱え、身体が軽かったことを覚えています。

身体の不調もその夢を見てから癒えました。不思議な出来事であったと今でも思い出します。

「円に相をうつす」ことで病も癒えたのだと思います。

夢は無形世界、有形世界ともに存在しています。生きながらして人は夢を見ているとも表現されます。どんな栄華を極めても死迎える時には「夢の又夢」となります。

人の心というのは上手くいかないものです。ましてや他人となると更にどうにもなりません。

人生を上手くしようなどという気持ちはとても立派でありますが、上手くしようとする限り上手くなんかなりません。

上手くいこうと頑張れば頑張るほど「上手くいくことが是、正しい」と自己そのものが上手いように縛られていくのです。

上手くいっている!と信じ込むことは可能ですが。

人は水を自由に操れていると思っていながら、一度も操れたことはありません。水はどんな器にも収まり、形を変えて、どんなものでも受け入れます。有ると見ながら、無いものです。

空も同様です。人は空を制したと思いながらも、一度も制したことはありません。見えても、掴めないのです。

有るべきようなものに、どうして無いとみるのか。不思議なものですね。また、逆も然りです。

一つ円、一つの相。その二つが合わさっての一円相であるのです。

ある禅者はもうしました。

「人間の真実は真裸になって始めて見えだす」

「おそらく禅には、つまるところ、なんの不思議もないのであろう。何一つかくすところなく、すべてはあなた方の眼前にある。もしあなた方が食事をとり、衣服をととのえ、野良で働いて米なり野菜なりを作るならば、それであなた方は、この世のなすべきことのすべてをなしているのであり、無限はあなた方の中に実現しているのである」

真ん丸と真っ裸な自分になってこそ、真実は見えてくるのです。

眼前に広がるすべては○でしかないのです。

○に対してあれやこれやとくだらないことを私たちは想像しては描いていただけなのです。そして、想像や妄想を空にできないから心がいっぱい、いっぱいになって病んでしまっただけなのです。

○に空を忘れ唯みる。それが満足に今を生きているということなのです。本当の世界を見出したということなのであります。

では、「人牛倶忘」の序と頌を見ていきましょう。

凡情脱落し、聖意皆な空ず

あれが欲しい、酒が飲みたい、美人やイケメンと寝たいなどという凡情、欲はなく、昔のことのように感じています。

研ぎ澄まされた鏡のような清浄な心を持っている。

それはお空に浮かぶ照る寒月のように澄んでいる。

ありがたい悟り臭いものを持っているかといえば、それさえもきれいさっぱりなくなってしまった。

私は何々である。と思っているうちは分別の世界の住人であります。

私は悟ったと思う心あればそれはもう悟りではありません。

我は清浄だと、我は輝いている。と思ったらそれは清くも輝いてもいないのです。

一休さんはこのように申しました。

さとらぬもさとりもおなしまよひなり

さとらぬさきをさとりとぞいふ

悟りを有無と分けている時点で迷いと同じものなのです。

清い、清くないと分けている時点でそれは清くないのです。

有仏の処、遨遊することを用いず

無仏の処、急に須らく走過すべし

極楽、地獄、仏様のいるところ、悟りのあるところにいつまでもウロウロとしてはいけないのです。

無―無―としていることは結構なことではありますが、それは無という闇の中で満足しているにすぎないのです。もっと言えば、悟りという世界に迷子になっているだけなのです。

夏目漱石の草枕の冒頭部分に出る内容を記します。「知に働けば角が立つ、情に棹されば流される。意地を通せば窮屈だ、とかく人の世は住みにくい。」自分が理知的でいようとすると人間関係に角が立ち、生活が穏やかではなくなります。情を重んじれば、どこまでも周りやその感情に引きずられてしまう。意地を通せば自分や相手に執着して窮屈に感じてしまいます。このような住みにくさがないところを真ん丸なところというのです。

人の世は住みづらいのです。しかし、住めば都とする言葉もある通り、心の働き次第でここは立派な都なのです。その真ん丸な心が分かったでありませんか。

仏の有る所も仏の無いところも等しく住みづらいのです。

だからこそ、住みやすい世界を創造しなければいけないのです。

眼前に有難がるものがある限り、それは本物ではないのです。

仏のいる世界に留まればそれは楽できるかもしれません。

しかし、それではいかんのです。

人は人の世に帰らなければいけない。だからといって仏のいない世界や真理のない世界などに行く必要もない。そんなところからは逃げるに限ります。

仏も悟りも臭くてかないません。だからといって、悟り臭いところは嫌だと言い、悟りのないところにいてもいけません。

では、どこがよいのか。唯、自己を忘れ、真ん丸なところにただ坐しておればいい。

何も思わず、働かせず、ただ心地の良いそんなところがよい湯加減なのです。

いい加減生きてみよ!

両頭に著せずんば、千眼も窺い難し

眼前に広がる有難いところにも執着せず、有難くないところにも執着しない。

頭が良いと頭に居れば足は動かず、足が良いと足のみ動けば頭のないまま迷子になる。

有無の仏に縛られず、そんなところにもとどまらない。

そんな境地が分かったならば「千眼も窺い難し」

すべてを見通し、千の世界を持つという千手千眼の観音様でも、お釈迦様でも、私の心や世界をご存じあるまい。

あの人は何を考えているのかさっぱりわからん。しかし、あの人はわかりやすい。

大人かと思えば子供のように無邪気になる。さっぱりわからん。

なぜなら、何も考えていないからだ。何も思っていないからだ。

そんな者を見通すことなど観音様でもお釈迦様でも神様でも無理なことなのだ。

ただ静かに真ん丸なところに坐してあるがままに微笑んでいるだけなのかもしれない。

百鳥華をふくむ、一場のもら

中国の牛頭法融禅師の逸話からきています。

徳の高い人物であったようで、山中で修行していると、人々が皆帰依したようです。

人間のみならず、山の小鳥までも花を咥えてきて牛頭禅師にお供えしたといいます。

それほど徳が高く、輝いていたそうです。

ところが、ひとたび四祖道信禅師について大事了畢してしまったら、小鳥が花を持ってこなくなってしまいました。

観音さまでもわからない境地が、山の小鳥や動物たちに分かられてはいけないのです。

世間の人に有難がられるようではダメなのです。

そんな境地では恥知らずの糞物でしかない。

この世にいて、この世に非ずとならなければいけないのだ。

有難いものを振り回し、世間を欺き、人を欺き、そんな者は覚者に非ず。

いつまでも阿呆としておればよい。言葉ではご立派な説法をして、身を立派に着飾り、されど心は臭き者に有難い御経を頼む必要もない。自分でご供養願ったほうがましだ。

本当の悟りはさとりの先にあるのです。

観音様、お釈迦様でも神様でもご存じない、窺い知れないところにいる、実に高い境地が「人牛倶忘」という世界なのです。何者も干渉できない世界なのです。

しかし、なかなかこの世界に入ることは難しいのです。入っても、入ったことを人が認めようとしないのです。

世界を創造するとは、実に難しく、困難な道なのであります。

鞭索人牛、尽く空に属す

牛を飼いならすために使った鞭や縄も必要がなくなった。

悟りも仏もまた法も尽く空になってしまったな。何もかもはらいつくして、燃やしつくしてしまって塵の一つもありはしないのだ。

この牛の菓子も食ってしまえば腹の中に丸くおさまるではないか。

碧天遼闊として信通じ難し

お空が晴れ渡ると、どこからも便りがなくなった。

手紙を出すにも、もらうにも、何の手がかりもない。

誰からも窺い知れず、時間も空間も超越したのだ。

空とした境地である。この空の上に立てば雲もしたになるのである。

まさに晴れ晴れな輝き、廓然無聖だ。

紅炉熖上、争でか雪を容れん

この炉の火は素晴らしい。

真っ赤な中におちた雪は尽く溶けてしまう。あとに何も残さない。

良い雪であっても、悪い雪であっても等しく溶けるのだ。

悟りも迷いも、地獄極楽も等しくこの炉の前では儚く消えてしまうのだ。

そういう境地が人牛倶忘ということなのである。

此に到って方に能く祖宗に合う

このような境地がわかってはじめて、悟りがわかったというのであるな。

ここで祖仏と「おはよう」と言えるのであるな。

そして、最後には「さようなら」と。

以上が第八の人牛倶忘のお話であります。

真ん丸とは何のことであろうか。

それは、円満な縁の成就ともいえます。

円相とは円に相を映すことをいいます。

円に相を映すとは、自己の世界や人生を見出しているといえます。

人生とは人が生きると書きます。

人が生きるとは何を示すことなのでしょうか。そして、成功とは何のことをいうのでしょうか。

自分の身体や心があるほど以外に立派で素晴らしいものはないはずです。

こうして心を働かせられるのも、人と出会えるのも縁あってのこと。

そして、身が一つ、心一つが立派にあるから今を生きていられる。

すべては縁により結ばれているのです。また、円の中の縁を自ら結んでいるのです。

その縁のすべてにより人は生かされているのです。

自分がこの世に生きているほど、業深く、愚かで、幸せで、有難いものはないのです。

この世に生きている限り、悟りなんてものに価値はないのです。

悟りにあぐらをかいている者に価値はないのです。

悟りとは人が力強く優しく生きるための手段の一つでしかないのです。また、気付くための手段でしかないのです。

そんなものに有難味を感じているようでは悟りの操り人形であります。

思い出してください。

私たちが生きていられるのは、動植物の尊い命をいただいているから。

だからこそ、生きられなかったものの分まで精一杯生き尽くして、感謝をし、供養としないとならぬのであります。

私たちほど愚かなものはおりません。なぜなら、所業を背負いながらも欲深く生きよう、欲深く死のうとしてしまう。

生きるなら生きる、死ぬなら死ぬ。それでよろしいはずなのに生の有限性に恐れ、死の無限性に畏怖して欲や妄想に染まってしまう。

そう恐れず、生きているなら生きる!と図太く、愚直に今を生き尽くしてみればよろしいのです。

人は永遠性を得ることなどできません。人は必ず死ぬのです。

だからこそ、いまを必死に生き尽くすのであります。

生き尽くすために悟りの有無など関係ないのです。

満足な人生を送るためには、大小様々な人生の道を絶え間なく選択し続けること、道を自らの手で切り拓いていくことが必要です。

その選んだ道は楽ばかりではなく苦もあったり、泥道、茨道であったりするかもしれません。

思った通りに道を切り拓くことができないかもしれません。

それでも、自らを主人公としてこれを選んでいかなければいけないのです。

臆せず、怖がらずに真正面から立ち向かい一つ一つと正しく決断していくことで人としての深み、人生の深み、真価はあらわになってきます。ここに人間としての生きがいというものが出てくるのです。

自分の人生を価値づけるものは自らを人生の主人公としかと心得て選択するところにのみ見出されるのであります。

こうも波のような心があって、毎日を迎えて幸せではありませんか。

心も在り、日も有る。これほど幸のあるものはないのです。

今日という日に生きられなかった人間や動植物の分まで精一杯生きて、生き尽くして、自分は日に生きている幸せを噛み締めてください。

そして、自分を生かしてくれるこの世の恩に報いてあげてください。

生きていることは有難い。死ねることも有難いこと。すべては完、有難いことなのです。

良寛さんがダルマをみて語った「起き上がり小法師」を紹介します。

人の投げるにまかせ、人を笑うにまかす

さらに一物の心地に当たる無し

語に寄す、人生もし君に似たらば

よく世間に遊ぶに何事か有らん

だるまさんは人に投げられても投げられたまんま、笑われても笑われたまんま。

それに対して分別も感情も妄想を起こさない。

私たち人も君のような生き方ができるならば、人生を暮らすのに何の苦労もないであろうに。

ヴィクトール・フランクルはこのように申しました。

「人間的実在はその自己超越性によって最も深く特徴づけられている。・・人間存在は、自己自身を超えて、もはや自己自身ではないあるものを指し示している」と。

自分を忘れ、自己の心のベクトルを超えた先に答えはあるということです。

また、フランクルは「成功とは、自己超越の結果に過ぎない」と考えていました。

この姿こそ円相の成就なのです。

以前もお話しましたが、いい加減生きるとは何かをお伝えします。

過ぎたるは猶及ばざるが如し『論語』

『何事もほどほどにすることが肝心であり、やりすぎることは足りないことと同じように良いこととは言えない』

また、『水準を越した師も水準に達しない商も、ともに十全ではない。人の言行には中庸が大切である』という故事からも来ているようです。

お釈迦様も生きるということは「中道」である。と言われました。

善道によれば、本性を失い迷子になる

悪道によれば、本性を失い迷子になる

自分であること、本来持っている自分さえも無くしてしまい。迷子になってしまいます。

金剛経にも『仁義礼智信を行ったとしても、敬うに値しない』

荘子にも似たように『本来人間に自然に備わっている道徳を打ち壊して、仁義礼法を作ったのは、聖人の過ちである』

真実の道とは、私たち人や自然天地が存在する前からあります。

人が自然と不自然を分け、天と地を引き裂いただけなのです。

有に生きれば 檻の中

無に生きれば 無限の暗闇

加減を知り中道を目指すこと。即ち有無の中心。

仏の有り、無しなどくだらないことなのです。

そんなものに囚われるくらいなら自分で自分の世界を創造してみればよい。

私たち人は「一人である自分」に酔ってはいまいか。

ありありと「修行をする」「ぜんを成す」「私は私」「苦しい」「幸せ」「生きたい」「死にたい」と口にし、心に思う。

私たちはいい加減に生ききることの加減を知らねばならない。

お酒も自分の加減を知らずに飲めば、酔いがまわり、クラクラに。

食も食べ過ぎれば苦しい。

なくなくと「ほしい」「得たい」「知りたい」「悟った」「生きる」「死ぬ」と口にし、心に抱く。

良い加減知らねば。

立花大亀老師は「利休に帰れ」というご著書の中で

客もなし亭主もあらで道具なし ただあるものは松風の音

松風の音のあるのもくい多し 尉になり行く炭を思へば

炭思ふ心のあるもいたましや 良き品なくて黒ふするなり

苦労する事のある事御茶なれや 掃除打水ぞうりならべて

ぞうりこそ客にはかせるものなりや こころ行く迄客の接待

と書いております。

人間関係とて同じです。

現代の精神的苦労の多くは「人間関係」から発生していると言われています。

ある臨済宗のお坊さんは「人間関係も良い加減で」と言っています。

お風呂の温度の適温が人それぞれ異なるように、人間関係のほど良さも自分で知らなければいけませんよ。と。また、ひと昔前は、裕福ではなくとも、みんなで生きていこうとする気持ちから、絆を育んだ、しかしながら、今は好きなように生きる考えが強い、人の間と書いて人間。人は、一人では生きられない。

随所に主と作れば、立処皆真なり

私もあなたも個として生きる主人公です。どんな場所でも、いかなる場合でも、主体性を持つ、自分が居れば、主人なのです。

しかし、主人公がいる。ということは「私」から見れば脇役が多くいるのも事実です。

どんなに主人公でも、一人ではよいお芝居ができません。

脇役の一人、一人にも目を配り、大切にしてこそ、名主人公として立てるのです。

いつまでも有る無いの世界に行き来するのではなく自らの世界を作る準備をしなければいけません。

物語は作るのは自分自身です。仏様でも神様でもありません。

人は世界を創造できます。「完成」されたもの求めて人類はこの作業を幾星霜繰り返します。想像するとゾッとするような無限の果てしなさを感じます。

人が本質的に求める世界は変わることなくただ廻り、完成されている自然物でありますが。

全ては零に廻り、丸を描いては丸に戻るかのように果てしなく、そして続きます。

真っ白なキャンパスに丸を描き、世界を描く。そのとなりに三角を描き世界を描く。

また、真ん丸に時には少し歪に繰り返します。その絶え間のない作業こそ未来の世界づくりです。納得のいくまで、納得のいくまで繰り返すのです。

それをしてこそ人という存在がはじめて完成されるのです。

空っぽになってはじめて世界は作られていくのです。

次のお話は「返本還源」です。

どのような世界なのでしょうか。

次回、お楽しみに。

有何無是 円は満ち弾けて相 世は夢幻この身は是空

佐々木宗芯

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