気性も荒く、野性で自由勝手なこの牛を何とか捕まえてみたものの、自分の思うようには動いてくれません。自分の方があっちこっちと牛に振り回されている感覚さえ覚えてしまっています。そこで牛を上手く飼いならし、自分が手綱をしっかり引いてやらなければいけないとする思いが出てきます。よく牛を飼いならして自分のものにしなければいけません。
この段階を牧牛ともいい、悟後の修行ともいわれています。
残すところ十牛図のお話も今日で半分となります。
第四「得牛」は本来の己を得るという意味において解釈されます。これは本来の自己の見出し、悟りを得た状況とも言えます。
しかし、悟りを悟りとしてかため、そのものに執着しているだけでは「悟り臭いだけの糞物」でしかありません。
正しく使い、上手く扱うところに悟りの真価は現れるのです。
牛を得ること自体は究極的な目的とはいえません。
また、悟りは本当の目的に非ずして、結果でしかありません。
悟りさえも超える、もっと言えば悟りそのものの実の有る意味を見出し、扱いきる段階を牧牛ともいえるのではないでしょうか。
ある禅者は言いました。
「終始悟りとして残るような悟りは、悟りではない。それは悟りの臭気が強すぎる悟りといわれる。悟りは、悟りそのものとなるには、悟りそのものをも失わなければならない。かかるものが悟りである。」と。
これらの点を考えますとこの第五の牧牛はこれからの自分を決めるため、十牛図の中でも最も大切な章ともいえます。
そして、これまでの修行とは、大きく内容も質も違うものであると心する必要があります。
では、今回は第五の牧牛、前回と同様に序と頌、訳をのせてお話します。
牧牛 序
前思纔かに起これば、後念相随う
覚に由るが故に以て真と成り、迷に在るが故に而も妄と為る
境に由って有なるにあらず、唯だ心より生ず
鼻索牢く牽いて、擬議を容れざる
牧牛 序(訳)
心に何かと浮かべると、色々次々につまらない考えが連なり合わさり起こってくる。
やはり自分自身が悟らなければ実の生活は真実とはならないのであろう。
迷っているかぎり、いつまでも虚妄や為(嘘)による生き方から離れられない。
問題は私の心の持ちようや生ずる所にあるのであって、境界が悪いわけではない。
せっかくつかんだ自分の鼻先を強く引っ張り、あれこれ考えさせる隙を与えてはいけない。
牧牛 頌
鞭索時々身を離さず
恐るらくは伊が歩を縦にして挨塵に入らんことを
相将いて牧得すれば純和せり
羈鎖拘すること無きも自ずから人を逐う
牧牛 頌(訳)
鞭で常に打って打ちまくれ
油断をすると、たちまちもとに戻るだけだ
ていねいに真っ直ぐ飼いならせばよいのだ
そうなれば、鎖や綱がなくてもついてくる
十牛図の中の第五話にあたる「牧牛」は童子が必死に牛を扱い、自分の本願に上手く引こうとする状況から始まります。
今回は次にお話する第六の騎牛帰家へと上手く結びつくように、牧牛の内容に騎牛帰家の意味も少し含みつつお話します。
悟りを超越するには、悟りさえも忘れ、放棄して、自分自身に本願を宿すことが必要です。
この牛を自分のものにして、目的とするところまで引いてやらなければどっちが引かれているのか、主かわからなくなります。
自ら主となり、自らに由り、自らが在るべきところが、目的地であり、帰る所なのです。
牛を目的地まで引くためには自らの本願や帰るべきところをまずは自覚しなければいけません。
その本願とは自分が生きる意味とも、自分の存在意味、本当の自分の価値が発揮されるところとも言い換えることができるのではないかと思われます。
そして、帰るべきところとは真心が本来あるべきところであります。
心が外に飛び出しても、心を素早く元の場所に戻す方法を牧牛で知ることができます。
得牛までは悟りそのものを私たちは問いました。
しかし、牧牛からは悟りに私たちは問われているともいえます。
そして、悟りそのものの問いに答えて、悟りを深めて超えて、人生というものを生き尽くす。
そのためには本願というものに最終的には帰らなければいけないのです。
ヴィクトール・フランクルの言葉を引用します。
「生きるとは、問われていること、答えること。自分自身の人生に責任をもつことである。」
「我々は世界に通じる道を辿ってのみ自分の自我に帰るのである。我々が自分の不安から自由になれるのは、・・自己放棄によって、自己を引き渡すことによって、そしてそれだけの価値ある事物へ自己をゆだねることによってである。それこそあらゆる自己形成の秘密である」
フランクルは我欲に操られる自己中心的な自己そのものや自己主観を放棄をして、それをするだけの価値ある事物に自己を素直に委ねることによって、人格を深め、内的な面においての成熟や完成を果たし、真の意味ある自己形成を生じさせるということ。そして、それらの働きが自己の価値を高めるということを示しました。
また、意味さえも超える「超意味」ということを示しました。
これは悟りさえも超えようとする牧牛の理解の助けになります。
牛とは本来の自分であり、理想とする自分でもありました。
その本当の自分がわかったなら、それを上手く扱い、価値のあるところ、本願までしっかり引いて、自分自身を成就させる必要があります。
わかった本来の自分自身に今の自己を素直に引き渡し、ゆだねなければいけません。
また、本来の自分も今の自己に引き渡し、同一化、超越して、自己からも解脱するという意味も含まれます。
悟りそのものの意味を超えて、悟りの先にある「無意味の中の意味ある真価」「意味の中の無意味への真価」をかみしめることも肝心なのです。
生き尽くすという中でもたらされる本当の人生への悲願をご一緒にこれから見出し、それを上手く扱ってみましょう。
では、一つ一つ、序と頌を見ていきましょう。
前思纔かに起これば、後念相随う
人は一念が心中で起こると、次から次へと絶え間のない念が起こってきます。
現れては消えて、消えては現れと過去の念が消えると新たな念が起こり、それが消えたと思っても、次に別な念が起こってきます。
この念を生死の迷いというようです。
ヴィクトール・フランクルは生死の超越として意味への意思という概念を持ち出しました。
それは「生きる意味・死ぬ意味」とは自分が人生から問われている事実を自覚して、それに答え、また、生きるという意味、死んでいく意味を自らに与え、人生に責任をもつことを説きました。それらを見出すには、「何かを行うこと、活動したり創造したりすること、自分の仕事を実現すること」これは創造価値といいます。二つ目は「何かを体験すること、自然、芸術、人間を愛することによって実現する」体験価値です。
そして、三つ目は態度価値、これは「自分の可能性が制約されているということが、どうしようもない運命であり、避けられず逃げられない事実であっても、その事実に対してどんな態度をとるか」これら三つを合わせて「意味への意思」の実現といいます。
フランクルは「人間的実在はその自己超越性によって最も深く特徴づけられている。・・人間存在は、自己自身を超えて、もはや自己自身ではないあるものを指し示している」と。
何かを創造すること、事にあたるという意味においての意味ある価値、何かを愛すること、愛すべき人を愛しぬくという意味ある価値、自分が抗えないことにあたっても意味ある態度で運命さえも変えるという意味ある本当の念を自分自身で見つけることが大切なのです。
頭の中で沸き起こる妄想やくだらない念にいちいち答えて、どうにかしようとするのは心の浪費であり、無駄であります。
また、仏然とただに神々しく光を放つばかりで、慈悲や他利、悲願なければ、いかにそれが真理であっても、理論的、論理的であったとしても、ただそれだけでは無駄なものであります。その奥に秘められた意味ある何かがあってこその価値なのです。
自己や世界を超越した形で沸き起こる超意味においての愛や悲願や慈悲、自利他利、煩悩、その念に一つ一つ応える方が実りがあります。
なぜなら、超越した者とて、仏様とて煩悩があるか、ないかといわれると、大いにあるのです。
それは、世のため人のために何かをしたい、みんなを救いたい、愛したいという念願があるのだから。
しかし、そこに覚者としての真価や意味はあったりします。
覚に由るが故に以て真と成り、迷に在るが故に而も妄と為る
この妄想を一度真剣で断ち切ってみると、そこには覚という世界が現れます。
その覚の世界から或る自覚をつかみ、眺めて真実をつかんでいくことができるのです。
真実を悟りの目線で分かったつもり、眺めているつもりでも、それは偽物であります。
私たち人は妄想や一念に常に心奪われているかを考えてみてください。
自分の為の欲に、我が身の可愛さという欲によって、眺めているにすぎないのです。
自分の主観、経験や体験から真実を見定めてやろうとするから、真なるものを見誤るのです。
心中が穏やかにならず、様々な欲や妄想でいっぱい溢れているうちは「妄」の世界でしかありません。
境に由って有なるにあらず、唯だ心より生ず
境界や向こうの世界には、有無も真実も偽もあるわけではありません。
世界を見出そうとしている心が、覚であるのか、迷いであるのかによって、世界の意味が真か偽かに分けられているだけなのです。
私はある日のお茶事の後、歌を詠みました。
我の茶や茶仏滅し闇晴れて心の空に侘びの心月
自分の心さえはっきりしていればそこには迷いや覚なるものも存在しません。
迷いや覚と二つを分けて考えるから、迷いの闇は訪れるのです。覚に由れば境が生まれるのです。
それではいけないのではないかと思うのです。
覚も妄もなく、円相の中が満ち、その満ち溢れた円より零れ落ちた一雫からまた、世界は新たに真ん丸に作られるのです。
本来、自分も他人も仏も神もいない。あるのは辺りをただ照らしている心のお月さん。
そのお月さんが照らす道を脇目を振らず牛とともに歩み、悲願に帰るだけであります。
善悪や真も偽も本来はないのです。
そして、人も他人という区別もなくして、あらわれる世界。
人は心無くして生きていることはできません。しかし、この心があるから四苦を感じてしまう。
心があるから幸せを感じる、でもある時は苦しい。幸せは得たい、苦しみからは逃れたいと分けます。
そんな風に人は自分の都合次第により、心さえも分けようとする。
結果自然也とする言葉もありますが、幸せは目指すべき目標ではなく、自然な結果でしかありません。また、同様に苦しいとする気持ちも今の結果であります。
無念無想という境地や、無心という境地、生ずる心全ては結果でしかないということをしっかり心して、歩むことが肝心なのです。
これらの大切さ、その覚えをここで会得しなければなりません。
また、真心はもっと超越した部分に宿っております。
それは、最も無分別なところにあるのです。
真心とは自分の利や世の利益さえも超えて、無意味、無益と思われるような中でも煌々と真の意味を見出せる円満満足の心中に自然とあるのではないかと思います。
そして、円から溢れるような満ちる真心から本来無一物中無尽蔵の心の働き、輝きが出てくるのであります。
それに人がそっと触れるから、円相成就、この先の自分の人生を生き尽くすという問いに答えることができるのです。
そして、生きていること自体の意味や生かされているという有難味、辺りを自分の身一つ、心一つで照らすことができる円満で満足な可能性を知るのであります。
美しい一輪の花を見て、皆が究意を受け、微笑むことは難しいかもしれません。
しかしながら、その一輪の花のあるがままの美しさを見出し、心の底から微笑むことができる者がこの世に一人でもいるのなら、その一人に触れるものはことごとく和やかな気持ちになり、救われるのです。
また、その一人に触れることで悟りというものを自然と各々で得ていく。そして、皆が各々の自分の人生の問いに満足に答えることができるのです。
第六の騎牛帰家とも重なり、その先のお話とも少し重なりましたが、無心も有心も超えた先に、救いはあるのです。
鼻索牢く牽いて、擬議を容れざる
この牛の鼻をしっかりつかみ、この牛の持っている正念や悲願を取り外さないようにしなければいけません。
牛に喝を入れること、歩かせることに躊躇はしなくてよいのです。
有無なる分別を入れる余地はありません。信じ念じてこの道を愚直に正しく進み、本願なるものに歩む過程で気付けばよいのです。
この牛と先ずは上手く付き合い、一緒に帰ることが大切なのだから。
このような境地を常に持続していくこと、正念相続していく心の働きが、牛を飼っている証、歩んでいる証となるのです。
牛を工夫して歩かせる、そのためには、他のものに心奪われている暇なんてありません。
鞭索時々身を離さず
片手に手綱を、もう片手に鞭を持ち、一時もこの牛を手放さないぞ。
よし!この鞭を牛に打って、打ちまくれ。ほかに見向きもさせず歩かせ続けるのだ。
時々に勤めて妄想もくだらない念も鞭で払拭せよ。
ただ、この牛に喝を入れるのみ。
恐るらくは伊が歩を縦にして挨塵に入らんことを
しっかり勤めていなければ、牛はたちまち隠れてしまう。
油断しないように、念が起こったら自分にも喝を入れなければいけない。
もう牛を汚さない、ゴミや埃を食わせんぞ。
油断も隙も見せられない。しっかり手綱と鞭を持っていなければ。
相将いて牧得すれば純和せり
しっかり手綱をつかんで牛を飼いならしていると、だんだんと手馴れてきたものだ。
牛は素直になり、なごやかで、よく自分の言うことを聞いてくれるのである。
もう牛は前のように暴れたり、消えたりせずおとなしくなった。
歩いても、坐っても、そこにはっきりと牛が居る。牛はいま、自覚したのであろう。
羈鎖拘すること無きも自ずから人を逐う
牛も一緒にいることが慣れてくると、綱や鞭はなくてもついてくる。
悟りを忘れていても、いつも牛は自然とついてくる。
ここまできたらただ、自分が真っ直ぐ歩いているだけでよいではないか。
念が起こっても、そのままに放っておけばよい。念が次から次へと沸き起こっても取り合わなければいい。
この念さえも上手く工夫して、その時、その時の旅の飯にして力にして、道具のように大自在に扱えればよいのだ。
以上が第五の牧牛のお話であります。
今回は、次の章である騎牛帰家へと結びつくように少しだけその内容を含ませています。
帰るべきところが分かっているから牛を上手く扱う工夫ができるのです。
そして、牛を扱っていると、牛の方からついてくるようになります。
これは、自分が成していることに自然とその実(悟り)が宿っているともいえます。
あれやこれやと工夫して扱わなくても、無心で悟りそのものの形を成している。
悟りさえも忘れて、超越しているともいえます。
一休さんも
さとらぬもさとりもおなしまよひなり
さとらぬさきをさとりとぞいふ
といいました。
悟らぬことも、悟りも同じ迷いである。悟らぬ先を真の悟りという。という意味になります。
「先の悟り」を知れるのは自分だけであります。
そして、それは臭いものではなく、有るようで無いもの。無いもので有るものなのです。
ある禅者はいいました。
「禅の要求するのは、我々が生きていく上において、或る確かな自覚の経験をもつということである。この自覚が我々人間を他の形の生物から質的に違ったものにするのである。そしてこの自覚にこそ、我々が千差万別であるにもかかわらず、平和の究意の住処を見出すのである。」といいました。
また「自主自立の獲得に最も必要なことは、自分の行為に対して責任をもつことである。」と
平和とはなごやかなことを示しています。
自ら目覚めることでそれが訪れるのであります。
牛に綱や鞭が必要がなくなったということは、自己を解脱しているともいえるのです。
本来の自分が自ずと離れ離れにならず、備わったという意味にもなるのではないでしょうか。
他の念に心奪われず、真の意味においての茶三昧の世界の完成であります。
心一つ、身を一つで無事なることを、安心なことを分かったのです。
次のお話は「騎牛帰家」であります。
牛に乗り、家まで一緒に無事に帰ることができるのでしょうか。
合掌。
引き 引かれて 念起こる
一喝 二喝 無事安心
家まで帰ろうもーもーと
佐々木宗芯