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十牛図のお話 二「見跡」

家を出て、故郷を後に牛を尋ねて深山に入り、やっとの思いで牛の足跡を見つけたという段階を見跡といいます。

くじけてしまう一歩手前で現れた一つの光明。

一「尋牛」のお話でもお伝えしましたが、「十牛図」とは、私たち人が本来持っている真心、悟りとも、目覚めとも、己事究明のともよばれるものを牛に例えて、その本性を求め歩んでいく修行の過程をいいます。

お釈迦様も言われたように「己こそ己のよる辺」

自分の拠り所とするべきは、自分である。

正しく調えられた本来の自分や面目、真の心を自覚して、真の自己を呼び覚ます。

それを拠り所として人生を生き尽くす。これが人としての大事ではないでしょうか。

その本当の自分が通った跡を見つけられたのが、この見跡でもあります。

面白いことにその跡はそこらにペタペタとあったのです。何故、無数にあったのに気付かなかったのでしょう。

では、今回は第二の見跡、前回と同様に序と頌、訳をのせて、お話します。

ご一緒に「うし」を探しに行きましょう。

見跡 序

経に依って義を解し、教を閲して跡を知る

衆器の一金為ることを明らめ、万物を体して自己を為す

正邪辨ぜずんば、真偽奚ぞ分かたん

未だ斯の門に入らざれば、権に見跡と為す

見跡 序(訳)

古人の残した教えや書物によって意味は理解できたし、その教えの跡をみることはできた。

教えによると、全ての器が一つの金で出来ていること、森羅万象、自然なるままがそのまま自己であることが分かった。

こうなった以上、教えの正しい、邪が区別できないようで、どうして実在の真と偽を分けることができるのだ。

そういうわけで、まだまだ本当の命や禅の門に入っていないのだから、仮としてこれを「足跡を見た」ということにしておこう。

見跡 頌

水辺林下、跡偏えに多し

芳草離披たり見るや也たいなや

縦い是れ深山の更に深き処なるも

遼天の鼻孔、怎ぞ他を蔵さん

見跡 頌(訳)

河の辺りや林の中ほど、牛の足跡が残っている。

よい香りの草花も、あたりにたくさん咲いている。

どんなに深い山の奥であっても。

これ、天に向いている牛の鼻が、隠さず見せてくれているじゃないか

 

十牛図の中の第二話にあたる「見跡」は童子が必死に探していた牛の足跡は自分を中心に見た、辺りそこらにあったことを知ることから始まります。

この足跡とは古人の通った跡でもあり、本当の自分が通った跡でもあります。

古事究明の方法や己事究明の方法を見つけられたともいえます。

見つけられたらあとは辿っていくだけです。

よし!見つけたぞ!とひとつ、ひとつの足跡をしっかり見つめながら進めば、牛は必ず現れます。

跡こそ牛であり、牛こそ跡であるのです。

そのため、見跡は真なるものの在処を頭に叩き込むように、教えてくれます。

一つ一つ、序と頌を見ていきましょう。

経に依って義を解し、教を閲して跡を知る

書物や経典で学ぶ、古人の教えや語録を拝読して、自分の本性や自性の在処や、その方角を客観的に定め決めることがまず大切であります。

私は私なのだ。ましてや勉強や本を読むことは好まない。稽古さえしていれば、坐っていれば、悟れる。などと尊い教えを放ってしまう邪見はいつから始まったのか。

教外別伝といいますが、教えが外にあるからこそ、別の伝えを求められるのです。

教えが表意に現れるから裏意も同じくして悟れる、教えが表で裏に別伝と。いわんでもよろしいのではないでしょうか。

教えも伝えも、分離したものではなく、二つで一つなのです。

ここを見誤り、私は私などという邪見を起こし、書物や古人の教えや法語、語録をないがしろにして、放ってはいつまでも、自分を曇らせる汚れをはらい、新たにして、浄めることも叶いません。

そして、その塵や汚れを拭う方法をいつまでも知ることはできないでしょう。

古人は古今東西、あらゆる学問をし、自分なりに研究もして、真実の探究に尽くしました。自分とは何か。幸福とは何か。人とは何か。と考えていきました。

しかし、学問や理性、頭では解決できないとして、それを求めるように、禅門や茶道の門に入っていくのです。

頭では抱えきれない問題を、真心に尋ねるのです。

しかしながら、心は頭と違い理解もできなければ、答えてくれるわけでもありません。

だからこそ、茶道や禅が本当の力や助けとなり、自分に喝を入れ、働きかけるのです。

教えや法句、古事一つ分かろうとしないで、何十年とただ茶道をしてみたところで何も実りません。

いたずらに過ごした年数という魔物は傲慢や慢心を生み出します。それでは、いかんのです。

古事や禅語、古人の示された教えや書物、お師匠様、お釈迦様の教え、キリスト様の教え。何でもよろしいので、ひとつひとつ切に味わいながら学んでいくことが大切です。

白隠禅師は、少年の頃『法華経』を読んで、このようなものが経典の王というならば、世間の小説や講談なども経典の王ではないか。と言って『法華経』を笑いながら、捨ててしまった。後に、寺を持ってから『法華経』を読み直して、夜がふけるまで『法華経』を読んでいたところ、縁の下のコオロギが細く鳴く声を聞いて、忽然と法華の妙体を覚ったといわれています。

そして、「こんなありがたい御経を、なんで今まで侮って捨ててしまったのであろう」と声を大きく放ち号泣したと伝わっています。

なぜ、侮って捨てていた『法華経』を白隠禅師は改めて読もうと思ったのか。不思議なものです。それは、少年の頃では抱えていなかった人間味が心中にあったからこそ、その妙に琴線を覚えたのだと思われます。

ある禅の坊さんはいいました。「まだ禅にはいらない前は、山は山、水は水であった。少し禅をやるようになると、山は山でなくなり、水は水ではなくなった。ところが、修行もすんだということになったら、山はまた山、水はまた水になった」と。

山は山ではない、水が水に非とした時節を、一遍は通らなくては、本当の山が見られず、水は見られないのでしょう。

そのように何も学ばずして、茶道や禅ばかりをやって、年数が過ぎた、公案がいくつか透った、やれ悟った、先生になった、印可を得たとのぼせてしまっては魔物、天魔になってしまう。

いかなることがあっても「心を導く師とはなれ、心を師とはせざれ」と古人も申しています。

古人が示された教えによって、牛の足跡を見つけるのが肝心なのです。

元々持っていた自分の真心を原点に探り、失ったものをひとつひとつ発見していくということなのです。

衆器の一金為ることを明らめ、万物を体して自己を為す

スポーツや競争のある世の中では、これ金メダル、あれは銅メダル、勝ちや負け組などと、自分と人を分けてしまいます。

しかし、すべての人は等しくひとつの立派な金メダルを持っているのです。

人間の身体は外見、内面ともに人により異なるが、元を辿れば、皆、同じ元素から成り立っています。

自然も同様です。

天地と善悪などを分ける行いは人が生まれてから発生します。

しかし、元を辿れば人という存在は生まれた時点ですでに自然と美しく完成されているのです。

天上天下唯我独尊ともいいますが、「天地、我と同じ、万物は我と友であり一体なり」であります。

頭や知識や知恵、経験や自分の価値観で良し悪しを分けるから、あれや良い、あれは悪い。などと分別してしまうだけであります。

人は等しく金メダルを持っている、そんな無分別の心に人としての深みは宿っていきます。

このような考えに、教えに触れたから、理解できたからといって、本当の自分ができた、完成したとはいえません。

まだ牛は見つけられていません。

ただ、こんな考え、教えがあるのかと足跡を見つけただけであります。

正邪辨ぜずんば、真偽奚ぞ分かたん

頭で善悪なんてないのだ。よし無三昧、お茶三昧となってみたところで、それはまだ足跡でしかありません。

何が正・邪。良い悪いかをわきまえることができなければ、本当の真や偽も分かりません。

無、無とやっているだけでは、何も出てこないのです。

無ではお茶が点てられないように、真心を得てこそ、おいしいお茶は点てられ、生まれるのです。

表があるから、裏があるように。また、裏があって表は生きます。

その表裏の中心が分からなければ、一対有無は出ないのです。

三昧ができているから、無字が見えたからというだけでは、本物ではありません。

手をパチンと叩けば。無が有になり、有が無になるようなはたらきが出てこないうちは、有る牛を見つけていないということなのです。

未だ斯の門に入らざれば、権に見跡と為す

まだこの門には入っていません。だから、まだ足跡見つけたところであると、自分を落ち着かせ、仮の一段を設けて、ここで牛探しの旅を終わらせない様にするのです。

人は途中で分かった気になってしまいます。

頭で理解できたことが、全てであると。見誤るからであります。

それでは、いつまでも、頭に使われて、奴隷になり、真心を働かせられず、本当の自分を失ったまま人生を終えてしまいます。

そうならないように、頭との一段区切りを設けるのであります。

頭で理解したから、無字三昧やお茶三昧をしてみたものの、なかなか心に響かず、わからない。

表も裏も有無もさっぱり分からず、何も生まれない。これでいいのか、悪いのかもわからない。

まだ先があります。私たちは牛の足跡を見つけただけであります。

あることを認め識ることと、あることがあること。とは別であります。

そこで、廓庵師遠禅師は頌を作ります。

水辺林下、跡偏えに多し

牛を尋ねて深い山奥まで入ってみた。今までは目に映らなかったが、美しい清水が流れている水辺、よくよく茂った林の中に、いたるところに牛の足跡があるではないか。

春は花、夏時鳥、秋は月、冬雪冴えて冷やしかりけり。

花は紅、柳は緑。

すべてはそのままの牛の足跡ではないか。松林から吹く風も牛の足跡ではないか。

さっきはよく聞こえなかった虫の声、蝉の声もすべては牛の在処を教えてくれている声であったのか!そうか!

芳草離披たり見るや也たいなや

辺りに漂う馥郁の香も草花のざわめきも、すべては足跡を示す、ものであったのか。草が茂り、邪魔をしていると思ったが、よく見てみると、牛が通った跡がたくさんあるではないか。

あるもの、きくもの、ことごとく教えを表し、示している。

何ともありがたい。

これを頼りに進んでみよう。

縦い是れ深山の更に深き処なるも、遼天の鼻孔、怎ぞ他を蔵さん

しかし、牛の足跡がたくさんあるのに、本体がはっきり見つからない。

自分を迷わすような草が多いからだ、煩悩や妄想を起こす草があたりに茂りすぎている。

足跡がありすぎて、どこに向かえばよいのかわからない。尋ねても、尋ねても、どこにいっても深く、迷いの山と草だらけ。理屈を押し付けてくるばかりで、さっぱり牛は現れない。

こんな悲観が押し寄せてきます。

最初は聞こえなかった蝉の声が聞こえたように、牛の足跡があるということは近くに牛はいるのです。

足跡さえ見つけられたなら、あとは只管その跡を辿ってみたらよろしいのです。

牛の鼻は隠しようがありません。いつかは牛自ら現れ、姿を拝めます。

なぜなら、牛も出てきて良いのか迷っているのだから。

足跡を見つけたなら、あきらめずに、つかまえるまで辿り頑張ってみましょう。

願心さえ失わなければ、捨ててしまわなければ、必ず牛はつかめます。

まだ、本当の自分探しは始まったばかりです。

大丈夫です。

以上が第二の見跡のお話であります。

足跡を見つけたなら、必死に辿るしかありません。

もし、夜が来て辺りを暗く染め、足跡を消そうとするなら、天に喝!と放ち晴れにしたり、手に持つ棒に火をつければよろしいのです。

そうした活力に感化され、牛は驚き自ら来てくれるかもしれません。

『法華経』の話の中に「露地の白牛」という面白い話があります。

露地の白牛

師、杏山に問う、如何なるか是露地の白牛。山云く、吽々。

師云く、唖する那。

山云く、長老作もさん。

師云く、這の畜生。

ある時、臨済が杏山和尚に問いました。

「如何なるか是れ露地の白牛」と。

『法華経』には露地の白牛というものがあるが、この白い牛とは何であるか。この牛はどこにいるのか。真っ白な牛とは何ぞ。と。

すると、杏山和尚、直ちに自ら牛になってしまう。

杏山「もーもー」

と臨済をみた。すると

臨済「貴様、ものも言わないのか」

杏山「おれの白牛はこうだが、それならお前のはどうじゃ」

自らを白牛とするのがダメなら、お前のはどうかと杏山は聞く。

臨済はそれをきいて、杏山の耳を引っ張り、尻を叩き。

臨済「シっ、シっ、どこかにいけ畜生が」

と臨済禅師は承知しなかったようです。

牛になろうと思ってはいけない。相手を牛にしてしまう。こんなところに臨済の働きはあったのです。

見るもの、聞くものを牛にことごとく変えて、使ってしまう。このような心の働きに自己の主体性は宿ったりするのではないでしょうか。

今回お話した、「見跡」を探るヒントになるのではないかと思い、引用いたしました。

向こうから牛が現れると思っているうちは、牛は出てきません。

目の前のものを牛に見られるから、牛は得られるのです。

ものを心ない死に物として使うのではなく、ものに心をみて活かして使う。

深山に入れば、草をはらう棒になる材料もたくさんあります。また、虫に声かければ、虫は友になってくれるのです。

相手の心に牛を見る。そこからヒョイと牛は現れたりします。

茶道の世界では生きているものをお花と炭にみます。

花に心はありますし、炭はコチコチ、カチカチと心を語っています。

それを聞いて見られるところに仏性は宿ったりするのではないでしょうか。

お道具も自分の身体の一部のように、扱う。空間の随所に心を宿らせる。

そんな心の働きがあって「随所の主となる」

山に入ってもそこを住処に主になってしまう。河に出会えば、一期一会の水に「おはよう」といい身体を浄める。

そんな風にドン!と構えていれば、答えは向こうからやってきます。

次のお話は「見牛」です。

やっと見つけた牛の本体。どうなるのでしょうか。

合掌。

虫に尋ねて 友になり

足跡見つけた 辿るのみ

もーもー聞こえる 牛の声

佐々木宗芯

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