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十牛図のお話 九「返本還源」

本に返り、源に還る。

全ての根源をどこに置くのか、されども一部の根源は全てへと結びついているものです。

全は一なり、一は全なり。

これら根源の結び合いの究明が人生における大切な問題であります。

多くの宗教は宇宙の根源や創造の根源を神に置きます。

キリスト教では天と地、光や闇を神様が創造したといいます。動植物が互いに関与し合い上手く生きているのは神様の思し召しであり、万物運命は神様のご意志に従い動くのだと申します。

仏教で申せば、宇宙の根源や創造の根源の本体は真如法界というようです。

また、今日の科学的な解釈では宇宙とは元素、原子で構成されたエネルギー体の部質であるといいます。

哲学的な解釈では宇宙の根源を心だといえば唯心論になり、部質だといえば唯物論になります。

このように根源の見方はそれぞれ根本的に異なります。その見方の中から人生観というものが発生するのです。

では、私の本当の根源をどこに置けばよいのか。

それこそ「人牛倶忘」となるのです。

私もなければ、牛もいない。真ん丸とした、もしくは三角、四角と異なる一円相。

はじめの一がめぐりめぐりとはじめに戻る。

空っぽとした清浄無垢、そのまんまの心には、私と世界、私と相手との対立もありません。

だからこそ現成受用できる。

私の人生観をどこに置くのか、何を目的としているのか、何のために生きているのか。

などといったそういった思惑や対比も一切起こらん。

何もない一の空っぽとしたこころがすべてと宇宙と一枚に自然と溶け合っているところ、それこそが本当のあるがままの根源なのであります。

空間や時間も部質さえも超越し、はじめとすべてが一枚に真ん丸となったところこそ、真理の根源であるのです。

「つららつららと心うち道是平常白的々」

はじめ無一物中のすべての無尽の蔵。

空っぽとした心には何もない。その心が全てと一体となり、それ一枚。

氷柱は形をなしたかと思えば一滴、一滴擦り減らしながらとポタポタと落ちていく。

その落ちたところで別の形を成し、世界が新たに創造されている。

ポタポタと落ちる過程は自然と導かれた道のようだ。

落ちたところは真っ白なキャンパスのようだ。何を描こうか。

今までは辛い辛いと心を撃ってきた。

今はつららつららと心のうちに道がある。

そういうところにお互いの根源、動かない永遠なる真理を悟っていくのであります。

この素晴らしい根源は何があっても、互いの体験によっても動いたりはしません。

そういう、絶対に動かないものを悟っていくのであります。

不動のものを持っているのであります。

私たち人の心は一度も動いたことはないのです。無くしたこともないのです。

動いているように思っていただけ、無くしたように思えただけだと気付いたではありませんか。

世界を創造した神様が存在する、しないと信じないわけでもなく、世界を構成しているのはなにかといえば、物ではありません、心でもありません。という理屈でもない。唯心論や唯物論でもないのです。

宇宙の本体は真如法界であるというわからない単なる説明でもない。

何も動くことなく、何も思うことのない坐する魂を持ち、清浄であるがままの心の主である自分と何もかも持っている宇宙とがぴったりと一つになり、すべてへと結びつく。

それよりほかに互いの拠り所となるようなものはないはずです。

私たち人はすべて持っているのです。それと同時にすべてを持ってはいないのです。

お釈迦様も言っていたでありませんが、「己こそ己のよる辺」と。

己が根源と一枚になった時、絶対的な拠り所が生まれる。はじめはすべてなのです。

すべてを持っているが、すべてを持ってなどいない。

そんなところで真の意味ある天上天下唯我独尊が生まれる。

神や仏も祖仏もなしに、この世の主人公は命ある私。この魂の主たる私。

衆生の恩に報わんとする者も命や魂のある私。

命が完成した時に魂は完全となるのです。

魂が完成した時に命は完全となるのです。

二つが一つになり、ぴったり合わさった時に完が生まれるのです。

そこに返っていくことが「返本還源」

では、今回は返本還源、前回と同様に序と頌、訳をのせてお話します。

返本還源 序

本来清浄にして、一塵を受けず

有相の栄枯を観じて、無為の凝寂に処す

幻化に同じからず、あに修治を仮らんや

水緑に山青くして、坐にして成敗を観る

返本還源 序(訳)

もともと大自然も私も清浄で塵の一つも受けていなかったのだ。

ありのままに見たところは花が咲いたり枯れたりしているけれども花そのものは無心で、ただあるがままを行じているだけなのである。

自然はありのままの事実であり、決して幻のようなものにはあらず。事実以上にわざわざ飾り立てるような必要はありはしない。

水は緑、山は青。じっと坐して観て、その移り変わりを楽しめばよいのだ。

返本還源 頌

本に返り源に還って已に功を費す

争でか如かん、直下に盲聾の若くならんには

庵中に見ず庵前の物

水は自ずから茫々、花は自ずから紅なり

返本還源 頌(訳)

本来に返ってその根源に還ってきた。すでに成功をつかみ、費やしている。

思いごとも争いなども起こさず、直下にあるもうろうのごとく真実を見よ。

庵の中を見ず、庵の前にある水は広々としており、花は自らを紅だと思ってはいない。

柳は緑、花は紅かな。

 

十牛図の中の第九話にあたる「返本還源」は本来に返り、源に還っているところに坐してそれらと同じくしているところにいます。

私たち人という生き物は難儀な生き物なのです。

自分がおりながら、自分ではないという。

そして、自分という存在をわかっているようで、まったくわかってはいない。

また、自分を偽って生きているではありませんか。

しかし、偽りさえも自分自身では気づけない。

人という存在は不思議に溢れています。

先日の束脩式での志高い青年のお話をします。

青年はこのようにもうしました。

「今までの私は本来の私ではありませんでした。どこか違うなと思いながらも私は私であると偽り生きてきました。それではいけないと思うきっかけが去年ありました。お茶の稽古を通じて本来の自分を知っていきたいのです。そして、本当の自分を見つけたいのです。入門とお弟子にとっていただきたくお願い申し上げます。」と。

束脩式を終え、私はその青年にお茶を点てました。

そこで色々なお話、質問をしてみました。

一つ一つ心に響いたようでよかったよかった。と思いました。

一つの発心さえあれば、もうすでに成就しているのです。

利休様も申していますが「その道に入らんと思う心こそ我が身ながらの師匠なりけれ」

きっと青年の心には導いてくれる本当の自分という師匠がすでにいるのでしょう。

この先がとても楽しみです。

まことに感服でありました。

その時の掛物は平常心是道。

それは日常でよく聞く平常心ではありません。

今の気持ちこそ平常心。

以前もお話ししましたが、平常心是道について再度申し上げます。

今やるべきことをやらないと、咲くものも咲かずに終わってしまいます。

人がやるべきこととはなんでしょうか。

それは人として素直に今を生き尽くすということであります。

幸せな時は幸せを素直に喜べばよろしい、苦しい時も無理に苦を抑えつけようとせずに苦しんでみればよろしいのです。

悲しい時も思いっきり悲しんだら良いのです。笑う時は笑う。

そんなところに人としての深みが出てくるのであります。

そして、これこそ人として生き尽くす一つの方法ではなかろうかと思うのです。

人はどうも素直に生きることが難しいと思ってしまうようです。

また、仮面をかぶって、偽り生きることが正しいかのような認識もございます。

あれやこれやと正当化する理由を作っては、自分や人から逃げる。

本当の自分さえも分からなくなってしまう。

忙しさを理由にしたり、他のせいにして自分の本性や素直で純粋無垢なるものを自ら遠ざけてしまう。

そして、いつの日かぽっかり穴空いた自分がいる。

何もわがままに生きる。ということではありません。

生き尽くす方法は自分から今出た感情や思いを素直にまずは受け入れてみる。

もっと言えば、良い方へと導けるように楽しみながら受け入れてしまう、それらの心の働きをポジティブに上手く用いてしまうのです。

心が飛び出てしまった時は深呼吸をして心があるべきところに真ん丸とおさまり、坐して戻ったイメージをする。そして、悪いものは口から吐き出すイメージをする。

そうすることで自分が絶え間なく磨かれ続けるのではないでしょうか。

人は感情を上手くコントロールできないようになっています。

感情をコントロールしようと思えば思うほど、逆の方向へといってしまいます。

相伝式でのお話をします。

地方に住むあるお弟子は自分が相伝を受ける日であるため、朝から心落ち着かずソワソワとしていたようです。

心の中で平常心(へいじょうしん)平常心。と思うほど心が反対の方へといってしまうと朝から悩んでいたようです。

その心は水屋でも現れていました。

そこで私は

「平常心。平常心。と思うほど逆の方に人の心は走ってしまいます。掛物にもありますが、平常心是道(びょうじょうしんこれどう)。今素直に発露しているものや今の心の状態こそ道である。この先の道を作っているんだと思ってみる。そうすると心がだんだんと落ち着いてきますよ」と話しました。

このように話したところ、お弟子は心に落ち着きを取り戻し、自分と向き合えたようです。

自分の気持ちや心の状態を否定するのではなく、素直に発露しているものを受用してみる。

それが人として生き尽くす道をつくる一つの手段になるのではないかと思うのです。

また、周りの人のことも受け入れていけるような真ん丸な慈悲の心も大切であります。

人生を生き尽くすためには周りや環境、人や世の中に遠慮して、自分を見失うことがないようにしないといけません。

自分を失い続けると、最終的には消えてしまいます。

自分のあるがままを知り、受用する。

自分から素の自分を受け入れてあげる。

そしてなるがままに委ねてみる。

それが人として生を全うするに大切なことではないでしょうか。

自分を大切にできるようになったら、周りの人も大切にする。

まずは自分にとって特別な人である恋人や家族を何より信じて大切にする。

それらの行いがめぐりめぐって、善き方へと自分の人生を導いてくれるのではないかと思うのです。

ある禅者はもうしました。

「人間の真実は真裸になって始めて見えだす」

人間の持っている本来の真実とはもう一度真裸になってはじめて見えてくるのです。

赤子の時は純粋無垢でありました。

覚えていますか?赤子の時の記憶を。

生まれたという衝撃は天地さえも宇宙さえもぶち抜くほど大きかったでしょう。

観るものすべて、美しくありのままの色があったでしょう。

それこそ、ただ眺めるだけで分別などなかったはずです。

時が経ち一つ一つ失い、忘れてしまっただけなのです。

「おそらく禅には、つまるところ、なんの不思議もないのであろう。何一つかくすところなく、すべてはあなた方の眼前にある。もしあなた方が食事をとり、衣服をととのえ、野良で働いて米なり野菜なりを作るならば、それであなた方は、この世のなすべきことのすべてをなしているのであり、無限はあなた方の中に実現しているのである」

無一物のこの身と心以上に価値のあるものはないでしょう。

すべては眼前にあるではありませんか。

一つ一つと行ずることですべてを成しているのです。成功しているのです。

生きていること以上に価値はないのです。

もっと無尽蔵に生き尽くせばよろしい。

くだらないものをいつまでも抱え込む以上に勿体ないものはないのです。

永遠の生命などありはしません。

日は新たになり、また日に新たなる時間や年々と過ぎいくとき人も花も同じからざる時間なのです。この移り変わりがやまざる時間の中に生きているということ、そのことが永遠の命の活動をしているというのです。

人はこの一刹那の中で生き尽くせば、一生を満たされて終えることができるのです。

互いを拠り所として生き尽くせばよろしい。

刻々と迫る時さえも空間さえも超越して、空でやればよろしい。

それこそが永遠の世界の完成であるのです。

では、「返本還源」の序と頌を見ていきましょう。

本来清浄にして、一塵を受けず

内外、天地と私とが一枚となり、この清浄無垢なところには、本来の自分がおり、本来清浄であり、何一つ塵も汚れも受けていないのです。

本来無一物中無尽蔵。

この身と心は本来は清浄、塵一つもなかったのです。中には無尽蔵の輝きを持っていたのです。

六祖大師はこのように申したようです。

「本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん」と。

花を見れば、そのまま花と自分とが一枚になって清浄となる。

無分別なところに自分が居る。

その花に向かって、美しい、きれいだなと思えばそれこそ分別の世界。それだけで塵がつくのです。

あるなと認識しても塵や埃がつく。誰が咲かせたかと考えれば塵がついてくるのです。

何も思わない花と自分とが一つとなり、花は花だと、花だけ。

そこが一つの塵も受け付けないところなのであります。

有相の栄枯を観じて、無為の凝寂に処す

有相の栄枯とは認識的な世界の移り変わるのことを申します。

無為の凝寂とは、何もない鏡のような澄み切った心境を申します。

三友庵の教えにこのようなものがあります。

「本を無為とし、常に茶の道をなして他がためをなさん」

本来はあるがままの無為なのです。そこには何もなく、はからいの心もないのです。

常に茶の道を歩み、それでもって人や世のためになるように還元する。

そのためには本来の無為を自分が知らなければなりません。

無為と有相を逆にしたらこのようになります。

「無為の凝寂に処して、有相の栄枯を観ず」

何もなく汚れもなく澄み切った鏡のような、はからいもない、分別のない心で、この移り変わる世界をあるがままに見つめる。

そういう清浄な心で、何のこだわりにもとらわれず、閑かに眺めていくならば、善悪、損得、天地さえもない。

もっといえば何の良し悪しもない。鏡がものの本質をただ映しているがごとく、ありのままの世界の姿を私は映していけるのです。

幻化に同じからず、あに修治を仮らんや

ある人は夢のまた夢といい果てました。

この世は夢や幻のごとく儚く、泡の如く一瞬で、露のごとく小さい。

まことにこの世は人は無常なのです。

刻々と迫るものに人は争うことが叶わず、変化を迫られる。

本当にあるものは何もない。本当などありはしない。このように、世の中を見ていくことが幻化というのです。

本当の自分が居れば、この世に映るすべては、ことごとく真理の世界なのです。

何も隠さず現れているのです。

無常を有常に、有常を無常に。

コインの面裏のようにぴたりとくっついているのです。

修理をしたり、いたんだところを治さんとしなくても、取り繕わなくても、ありのままが本当の世界なのです。

貴方は何々ですか?という問いに素直に答えればよろしい。

貴方は人間ですか?と聞かれたら、なんと答えますか。捻くれていや違います。と答えますか。

人は人でしかないのです。それ以上のものではありません。この世に人の前に特別とつく者などおりません。皆は等しく人でしかありません。

自分にとって特別な人という存在はおりますが。

皆は等しい存在なのです。

悟りを開いてみれば、四苦の中の生きることも、老いることも、病になることも、死ぬことさえも、すべてはそのままの真実でしかない。

良寛さんもこのようにもうしました。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候

死ぬる時節には死ぬがよく候

是はこれ災難をよがるる妙法にて候」

無常の世の中が、悟り開いてみればありのままの真実でしかないということを教えてくれます。

また、良寛さんがダルマをみて語った「起き上がり小法師」を紹介します。

人の投げるにまかせ、人を笑うにまかす

さらに一物の心地に当たる無し

語に寄す、人生もし君に似たらば

よく世間に遊ぶに何事か有らん

だるまさんは人に投げられても投げられたまんま、笑われても笑われたまんま。

それに対して分別も感情も妄想を起こさない。

私たち人も君のような生き方ができるならば、人生を暮らすのに何の苦労もないであろうに。

これこそが無常の世界をうまく生き尽くせる妙法なのであります。

時節に勤めて払拭もせんでよろしい。

ありのままに、あるがままに。

水緑に山青くして、坐にして成敗を観る

水は緑、山は青、ありのままの世界が絶対なのであります。

水は青、山は緑などと分けて見ないでもよろしいのです。

ありのままでしかない世界をありのままとして見ればよろしい。

ありのままどころではありません。

何を見ても新たに美しい、何を見ても真実だと受け入れる。

そういった目の開いてるところこそ返本還源なのです。

自己が分かったのなら、本来の自己や世界や面目や本性なるものに縛られる必要はないのです。

あるがままの自己こそ、眼前にありのままに現れになっている世界こそ自分なのです。

あるがまま、なるがまま。それでよろしいのであります。

一休さんも

さとらぬもさとりもおなしまよひなり

さとらぬさきをさとりとぞいふ

と言いました。

坐してみればことごとくは成敗なり。

この座って居るところが尽く天国、浄土、極楽世界なり。

悟ってしまうというと、悟らぬ先と同じこと。もうこのままで結構。

このままですでに救われているのです。

寂の先の侘びるかな。

本に返り源に還って已に功を費す

この本来に返るために、本来の源に還るために、随分と骨を折ってきたものだな。

牛を訪ねて家を出て、その足跡を見つけ、牛を追い捕まえて、ようやく飼い慣らして、それに乗って我が家に帰ってきた。

しかし、その牛をすっかり忘れ、我も忘れて、本の処に返ってきたのである。

考えてみればいらぬ苦労をしたようだ。

されどその苦労が成功であったのであろう。

労をして功はなし。

このままで良いのなら、何も苦労して牛を求めて骨を折らなくてもよかったではないか。

このままでよろしいなら、何も修行などしなくてもよかったではないか。

我とはつくづく思う、「人なのだと」

争でか如かん、直下に盲聾の若くならんには

骨をおりながら見性してみたが、結局はありのままで良いのだ。このままがよいというならば、何も苦労して修行することなどない。

初めからもうろうのような心持ちでおればよいのだ。

上も下、外のものに囚われてはいけない。

いろいろな思いに縛られてもいけない。

目の見えない人が見るものに囚われないように、耳の聞こえない人が音にとらわれないように、見るもの聞くものにとらわれなければ、何も修行も必要ないではあるまいか。

本来の清浄無垢な心とは、生まれてから一度も失ったことはない。生まれながらして持っておるのだ。

何も思わない心に返せばよいのだから、修行などする必要はない。

こだわりも囚われもすべては必要ない。

あるがままの自分とはうちにいるのだから。

庵中に見ず庵前の物

水は自ずから茫々、花は自ずから紅なり

家の中に籠り、窓を閉めていては、外に何があっても何も見ることはできないのだ。

六根清浄にして、その目でことごとく世界を見つめれば、水は自ずから茫々、花は自ずから紅なりとしている。

柳は緑、花は紅とよくいったものだ。

殻を打ち砕き、外もうちに何も思わず見つめることですべては一つにおさまった。

天下もおさまれば平和なのである。

見る世界も居る世界もまったく一つだとわかるならば、自然なるままである。

山是山水是水という極々常識的な世界をいっぺん疑い、山は山ではなく、水は水に非ずだと言うことがわかった。

されど、山は山でしかなく、水は水でしかなかったな。

前の山は前の山ではなく、水も前の見ていた水ではないが山は山、水は水。

こういう世界が返本還源というのだろう。

コインの面裏のような一円相なのであろう。

何もないような世界が円相の裏ならば、眼前に広がる花や山、水は表なのであろう。

裏表はあるが、それは一枚となっている。

以上が第九話にあたる返本還源のお話であります。

本に返り、源に還る。

それは世界の成就ともいえます。

法華十双権実の注には「体・用については、修行覚道し、悟りの根源を知ることは、体である。修業後に悟りを身に着けた者が、迷いの世界の中で人々のために尽くすことが、用である。例えば、体は大地のようなもので、用は体に帰する。権(方便)は実に(真実)に帰する」と書かれています。

有無とは手をパチン!と叩くと無の空間から自分が有を生み出します。そして一瞬で無に消えていく。離れているように見えて、結びついて見える有無の世界は一つで二つでありながら、二つで一つであります。

そういった世界の表と裏が合わさったところに私はいま坐して居るのです。

人の内には侘びというものがあります。

以前もお伝えしましたが、あらためてお話します。

身一つ、心一つ、本来無一物は中に無尽蔵の真心を包蔵しています。

この身、この心でできる限りのことを成す。

それが寂びの源流でもあるのです。

侘びも寂も表裏一体であり、二つは一つで一つで二つであります。

礼をもって「和」と成し、和からは「敬」を生ませ、敬から本なる「清」を育み、因果の「寂」は侘びの境地へと至る。

本来の清浄無垢な心の内には侘びというものがあるのです。

世を有無とし、ありのままを受け入れる姿勢が大切なのであります。

「侘」は「ありのまま」となり不足な世を知足のあるがままに存在する世界へと変えてくれます。

これこそ円相円満な世界の成就なのです。

しかしながら、侘びとは作為的にそして意識的に表現し、世に現出されうるものではないと私は思います。

茶人の生き方で考えれば侘びは本は内から自ずと出る自然なものであり、無為で自然に世に構成するものの「あるがまま」の現状そのままが侘びであると考えます。

作為により生まれた侘しい姿は作られたものであり不自然なものであります。

茶人の内から生まれ出づる侘びの心とは澄み切った鏡のようにあるがまま、ありのままであるのです。

それが根源となりこの世に円相世界を映し出されていくのです。

無為の中の本ということです。

実相世界に無の一字を加えたということなのです。

また、竹野紹鴎は「数奇者というは隠遁の心第一に侘びて、仏法の意味をも得知る」と言われました。

数奇とは「片われにして、相揃わず」という意味です。相揃わずとも、嘆くこともなく、茶の湯をあるべきようにして楽しむこと叶います。

それは本に返り、自分のあるもので茶の湯をするということでもあるのです。

そして、竹野紹鴎が侘茶の神髄は「正直にして慎み深くおごらぬ様」といわれました。

悟りさえも忘れ、己さえも忘れ、その先へと愚直に進み続ける。

その姿は慎み深くおごりも見当たらない。

ひとえに一服のお茶を点てるために。衆生のために。

今日も和顔と愛語。

立花大亀老師は「形式的な生活になりがちな昨今の茶人を遺憾とするのです。人はもっと謙虚になってほしい。しかしこれも叶いますまい。古いものは捨てられ、新しいものが世を支配する。しかしながら、再度申し上げます。茶の湯に侘びはなく、茶人の心中に侘びはあると。そして、侘びとは耐え忍ぶ心であると」

先日の稽古で私は外の氷柱を見ていました。

その氷柱がポタポタと溶けていく姿、掛物の平常心是道、庭の真っ白な雪をみてこのように思いました。

「つららつららと心うち道是平常白的々」

人の心とは本来は清浄無垢、それは真っ白でもっと真っ白。人の心の中には氷柱から滴るような一滴水が常にある。そのポタポタとした一滴の水が世界を形作るのだと、今の心の働きがそのまま道となるのだと。

詩人の坂村真民先生の「限りあるいのちを持て」をもう一度紹介します。

限りある

いのちを持ちて

限りなき

いのちのひとを

恋いたてまつる

いきとし生けるもの

いつの日か終わりあり

されど

終わりなきひといますなれば

一日のうれしかりけり

一生のたのしかりけり

一休さんの歌にもこのようなものがあります。

さとり得て何樂しまん無一物

本来喰てねたりおきたり

次のお話は「入鄽垂手」であります。

最後はどのような形で終わるのでしょうか。

次回で十牛図の物語も最後となります。

お楽しみに。

無物有物も本は一物

これ坐して喫茶 是去るも行く

みちる心は〇成就

佐々木宗芯

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