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十牛図のお話 三「見牛」

牛を尋ねて修行に出かけ、牛の足跡をやっとの思いで見つけて、そして牛の声を聞き、その本体の影を見出したという段階を見牛といいます。

くじけずに一歩一歩と跡を辿り進んだ先に見つけた牛の影。

第一の「尋牛」でもお伝えしましたが、「十牛図」とは、私たち人が本来持っている真心、悟りとも、目覚めとも、本当の自分や己事究明ともよばれるものを牛に例えて、その本性や本来の自分を求めて歩んでいく修行の過程をいいます。

また、第二の「見跡」でもお話しましたが、「露地の白牛」を深く味わい、見るもの、聞くものをことごとく牛に変えてしまう心の働きがあるから、牛がヒョイと現れるのです。

そして、その働きは第三の「見牛」、牛の本体や牛の影を見つける手助けになるのです。

正しく調えられた本来の自分を取り戻し、真の心を自覚して、真の自己を呼び覚ます。

自分を自分の拠り所として人生を生き尽くす。これが人としての大事であり、大自在の心であります。

真なるものを正しく使い、上手く扱いきる。

その本当の自分の影を見つけられたのが、この見牛であります。

牛は常に目の前にいたのです。しかし、それに気づかず跡を追い、彷徨い続けました。

何故、牛は目の前にいたのに見出せなかったのでしょう。

では、今回は第三の見牛、前回と同様に序と頌、訳をのせてお話します。

ご一緒に「うし」を見てみましょう。

見牛 序

声より得入すれば、見処源に逢う

六根門著々差うこと無し、動用の中頭々顕露す

水中の塩味、色裏の膠青

眉毛を眨上すれば、是れ他物に非ず

見牛 序(訳)

牛の声を聞いて、その声のするところに走りいくと根源に出会った。

見るもの聞くものが、すべてひとつひとつと違うことなくピタリと合わさり、動きの一々が隠さず真理の丸出しである。

水の中の塩分や色の裏にある青き膠のように。

思いっきり眉を上げて眼をカッ!と見開けば、まさにこれだ。

見牛 頌

黄鸎枝上、一声々

日暖かに風和やかにして岸柳青し

只だ此れ更に廻避する処無し

森々たる頭角、画けども成り難し

見牛 頌(訳)

枝の上に鶯が、声ひとつホーホケキョと鳴いている。

日々の陽は暖かく風も和らいで、岸にある柳も青い。

ただこうなると、もうここからは逃げられなくなる。

立派な牛の素晴らしさは、とても画くことはできない。

 

十牛図の中にある第三話にあたる「見牛」は童子が必死に求めていた牛の本体、牛の影が自分の前に隠さず突然と顕になった状態から始まります。

この牛の本体とは本来の自分でもあり、所謂、見性、悟りが開けるということであります。

探していた本来の自分の影を見つけられたともいえます。

うし、見つけた!となったらひとつひとつ自分であるかを確認するだけであります。

牛こそ探していた自分であり、自分こそ牛であったのです。

そのためには、自分の真の牛であるかを見出さなければいけません。

では、一つ一つ、序と頌を見ていきましょう。

声より得入すれば、見処源に逢う

探していた牛の声をはっきり聞いて、自分のお互いの表裏、自性、本性の門を開くと、初めて心の中に常にいた牛に逢い見えるわけであります。

人の意識の働きは六根(眼耳鼻舌身意)すべてが互いに干渉し合い機能します。

中でも耳の働きは一番不可思議なものとされています。

互いに干渉し合う六根の中でも、音というものはそれら互いの意識の動きに強く干渉して働きます。

音を聞いて悟ったという人は古今より多いとされています。

例えば『無門関』の無門和尚は太鼓の音を聞いて忽然と見性した、白隠和尚は夜明けの鐘の音をきいてハッ!と見性した。といわれています。

芭蕉は「古池や蛙飛び込む水の音」といい、蛙がドブン!と飛び込む音に生の始まりを、悟りを開きました。

茶事を終えて私が独服していた時の不思議な出来事をお話します。

お茶事を終えて、みんなが帰られた後、一人でお点前をしながらお茶を静かに飲んでいました。

さて、お茶も飲み終わり、水を釜に入れました時、釜より大きな声で「キュー!」と不可思議なことに、語り掛けられました。

この「キュー!」と甲高く放つ釜の声を聞き、私の中で忽然と現れたものがありました。

今も思えば、この時の声の主は環付にいる大亀ではないかと思っております。

ありがたく、とても不可思議な出来事でありました。

無の中から忽然と見性、顕れる有は有無一体の円相世界でもあり、現成、本来の自分でもあります。

有の中に入っていく無を無は有といい、本来無一物中は無尽蔵の知足で満足の世界でもあり、本来の円満満足な自分の姿でもあります。この二つの世界が忽然と合わさるところを悟りとも、目覚めたともいいます。

しかし、悟りとて有無。有るようで無い。無いようで有るもの。大したものではありません。

人はこのようにありがたく、実に驚きに溢れている世に暮らしていながら、いっこうに驚き見ようとしない。

赤子は見るものすべてが驚きで新鮮で美しく彩られたものとして見ています。

しかし、年を取ると世の美しさより、汚さがよく見えるようになります。

これでは、いかんのです。

新鮮な意識に働きかけるような感激や外の刺激がなければ、源に辿る着くことなどできません。

六根門著々差うこと無し、動用の中頭々顕露す

六根とは眼耳鼻舌身意の働きをいいます。

耳ばかりではなく、眼も匂いも、味わいも、感覚や思うこと、考えること。すべてが違うことない悟りの手段であります。

六根門すべてを通して、ことごとく自分であるのです。

人により、それは異なるように、自分は自分でしか六根での働きを純粋に感じ入ることはできないのです。

六根門の通うところ、触れるところ、ことごとく現成、見性の門ではないところはありません。

不白筆記にも「主客一致二真ナルヲ以て道二進ヲ願、衆生一所六根清浄二して本分田地二住して楽之。誠茶之湯の本意也」とあります。

六根清浄にしてとは、皆は等しく違うことなく眼耳鼻舌身意のすべてが本来清い、もしくは、福徳により六根は清らかになるということです。

「動用」「体用」とは、はたらきをいいます。真心や仏性の働きともいいます。

以前もお話しましたが、お茶での体用のお話をします。

体とは動かないものを総じて示しています。心や体の中心点、道具においては釜や水指、水屋なども含まれます。

用とは動いて使うもの、手や足、目、道具では茶杓や棗、茶入れや水屋のふきんなどが用の働きに属しています。

体用どちらも点前などでは欠かせない構成要素であります。一つで二つであり、二つで一つであります。

また、動静体用が一致してこそ茶三昧の境地に入り、茶世界の体現が叶い、そして、目の前のことに全集中できるようになります。

体(静)と用(動)が一体化して臨むにはどのような形が理想であるか。

それは有無体用を心がけて日々を過ごすことしかありません。

有無とは手をパチン!と叩くと無の空間から自分が有を生み出します。そして一瞬で無に消えていく。離れているように見えて、結びついて見える有無の世界は一つで二つでありながら、二つで一つであります。

独立した個とした存在ながら有も無もなければ世界は成立しません。

体用同一であれば、心を一つにして、無我夢中で無心な静かさを主眼とすることは「体」根本となる部分が真に起こります。

そこに、身体や手、目を動かし点前や所作をすると「用」の働きが生まれます。

この姿、この働きが同一化の一歩であると考えます。

書物の一説から説明を加えると、中庸の文の中に「体と用は、動静の違いはあるが、必ず体(動)が生じて、その後(用)となる。つまり、体と用が別々に二つであるわけではない」と記載されております。

また、法華十双権実の注には「体・用については、修行覚道し、悟りの根源を知ることは、体である。修業後に悟りを身に着けた者が、迷いの世界の中で人々のために尽くすことが、用である。例えば、体は大地のようなもので、用は体に帰する。権(方便)は実に(真実)に帰する」と書かれています。

利休百人一首にも「一点前点つるうちには 善悪と有無の心わかちをも知る」とあります。意味は一つの手前にすみずみまで注意を払うということは、良きも悪きも関係なく 無心になっているということです。お茶を点て終えるまでは。

忽然と現れる牛はここにいたりします。

見るもの、聞くもの、放つものすべてが互いに意識働き、その中に自と牛の頭は出ているということであります。

何も隠すことなく、どこに隠れていたわけでもなく、本来の自分は丸出し。

お茶をして茶三昧になり、有無が分かることを、一応見性とは言いますが、それでは、見性の働きは弱いのです。

見性したとしても、心が完全ではないとき、実っていない時、命は不完全であります。

見性を通し、実り、六根清浄にしてあるがまま。こうして心が自然と完成を迎えたとき、わが命は完全となるのです。

お茶をして茶三昧になったときその静寂が外の力により打ち破られ、外の色に新たに染まる。

そんなところに忽然とした、お互いの自性が実りあらわになり、命は躍動します。

六根が私か。それとも私が六根であるのか。互いに一つになり互いを光明示す。

主観も客観も一致して、あるがままを受け入れるところに牛は出てくる。

日常も非日常も関係なくして、人生を生き尽くして、外に働き出るというところに、人としての真価や本性なるものが互いにはっきりなる。

これが人としての世を自分らしく「生き尽くす」ということなのではないでしょうか。

水中の塩味、色裏の膠青

水中の中に塩味はあるのか、見ただけではそこに味があるのかはわかりません。

柳は緑色だとしても、花が紅の色をしていたとしても、そこの中に存在する裏の真実や膠があるとは、見ただけではわかりません。

表が見えているからといってその裏まで見えるかは別問題なのです。

同じく互いの本性も真心も、姿も無ければ形もなく、色もありません。

しかし、お互いの働きの中に、ちゃんと本来の自分は宿っている。

自分が幸せを感じるから、相手が幸せを感じ笑っているから、自分も自然と笑顔になっている。お話したり、笑顔になったり、泣いたり怒ったりする中に、本来の自分の今が素直にあらわれているではないか。

それを押さえつけ、見せまいとしても、すでに牛はあらわになっているのです。

眉毛を眨上すれば、是れ他物に非ず

眉毛を上にすると眼が自然と開きます。

朝目覚めるには、自から眉毛を上にして眼を開いてあげなければならない。

寝たまま人は働けない様に、眼をしっかり開け切っているところに、互いの働きがあり、ことごとく仏性や本性は出ているのです。

見るもの、聞くもの、放つもの、そして行うもの、すべてに牛は出ているのです。

それでも、牛が見えないのは、妄想や先入観、知恵や知識、悪知恵、邪見を持っているからであります。

この曇った自分や妄想、先入観、悪知恵、邪見を捨て去り、無心になってみるならば、牛が有になり、聞くもの、見るもの、ことごとく牛の声になります。

そこからひとつひとつと本来の自分の声を取り戻さなければならないのです。

黄鸎枝上、一声々

枝の上で良い声を鳴らした鶯がいる。これも牛の声ではないか。

さっきまでの蝉も鶯のように美しく鳴いていたではないか。

ことごとく、この声は牛の声を、牛の在処を示してくれていたではあるまいか。

これこそ、仏性の宿る処である。

日暖かに風和やかにして岸柳青し

ようやく風の心地良さを感じられ、日々の好き、今日も好風にして、和やかなことを知れた。

柳は美しく緑であり、その風吹いたあとには柳の芽が新たに芽生えている。

まことに有難き、景色ではござらんか。

身に触れるもの、聞く声、みるもの、ことごとく牛ではないか。ことごとく、ありがたい。

只だ此れ更に廻避する処無し

こうなってしまっては此処から逃げるわけにはいかない。

すべては牛だ。見るもの、聞くもの、放つものことごとく牛だとわかってしまった。

逃げられん、逃げようとも思わない。

あちこちに牛がいるから。

森々たる頭角、画けども成り難し

ここは美しい。牛の姿も立派で角も良き。

形も姿も良いが、それを画こうと思っても、画けるものではない。

画いてしまうと、牛は逃げ、二つになってしまう。

私はこの美しさや驚きを心に得たが、人にこれを表現すること、自分と同じような感嘆を人の心に伝えることはなかなか難しいものである。

その美しさを画け、その声、立派な牛を作れといわれても、無理な話である。

花は紅、柳は緑。

春は花 夏時鳥 秋は月 冬雪さえて冷やしかりけり。

ありのまま、あるがままという存在そのものの真実の美しさは一度そこから離れたものにしか、見えず、わからないのである。

そういえば、ある禅の坊さんが言っていた。「まだ禅にはいらない前は、山は山、水は水であった。少し禅をやるようになると、山は山でなくなり、水は水ではなくなった。ところが、修行もすんだということになったら、山はまた山、水はまた水になった」と。

山は山ではない、水が水に非とした時節を、一遍は通らなくては、あるがままに存在するという本来の美しさに気づかず、そして、本当の山が見られず、本当の水を見ることはできないのだ。

見えた美しいものは無理をしたらうまく画けるが、その美しい心、生きた牛を捉えて画くことはできないのだ。それは私の内にあるのだから。

以上が第三の見牛のお話であります。

牛を見つけたなら、牛を得るまで頑張るしかありません。

牛は今まで自由、勝手気ままに過ごしていたから、捕らえようとすると暴れるかもしれません。

それでも追いかけ、頑張るしかないのです。

牛を見ただけで、やれ悟った。などと思い至ってはなりません。

まだ、牛は得てはいないのです。

しかし、次の得牛に進むにあたりひとつご注意をいたします。

ある禅者は言いました。

「終始悟りとして残るような悟りは、悟りではない。それは悟りの臭気が強すぎる悟りといわれる。悟りは、悟りそのものとなるには、悟りそのものをも失わなければならない。かかるものが悟りである。」と。

人は一度手に入れたものに強く執着します。

それは、得難い物であるほど、執着心は強く出ます。

しかし、悟りを悟りとしてかため、それに執着してしまうと、それは「悟り臭いだけの糞」でしかありません。

悟りさえも忘れ捨て、悟りさえももう一歩進むための手段として使用する。

そんな心の決意と働きに人としての本来の面目、本性は自然と宿っていくのです。

自己さえも忘れきる。そんなところに人としての進歩はあるのです。

一度止まってしまうと、次に動き出すまでに時間がかかってしまいます。

だから、人は立ち止まることなく、唯只管に、滅茶苦茶に働くしかないのです。

生き尽くす先なんて考えないのです。

唯只管に今を行ずるのみ。

お茶に目覚めた真心を活かすから、お茶の命は新たに芽生え、生き生きします。

悟りも目覚めたものも上手く使うところに人として、茶人としての真価は現れるのです。

自分だけが目覚めたらよい。としてはならないのであります。

仏にも人にもお茶を点て、自分も飲む。そんな心の働きを常に持つことが肝心です。

また、茶道とは古に学び今に生かして己を知り、未来に洗練した形を残す手段であると考えます。

第一お茶を行う過程で心が高まり深まることで自己覚醒に至る道「お茶から心へ」

第二に心の深まりと自己の高まりにより行うお茶「心からお茶へ」

この二つが合わさり茶道が形成されるように私は感じています。

次のお話は「得牛」であります。

やっと見つけた牛の本体、得られるのでしょうか。

合掌。

見て跡辿り 三千世界

忽然見つけた 牛尻尾

逃げる牛 暴れる牛と 得難きもーもー

佐々木宗芯

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