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十牛図のお話 七「忘牛存人」

騎牛帰家の章にて牛をしっかり飼い慣らして、自分のものとなり、一体化し、その牛に乗り本来の故郷に帰ってきました。

牛を得て、しっかり飼い慣らしているためすでに立派な悟りとも言えますが、その悟りに執着して、ずっと持っていては「悟り臭いだけの糞」でしかなく、悟りという病を持った病人でしかありません。立派な悟りをもって結構ではありますが、我人の身を離れずという言葉の通り、真の意義ある覚者として進んでいかなければなりません。

どれ一つお茶の稽古でもして礼や和敬清寂なるものを身に着けよう、己事究明でもしてみようと言って、ある程度年月の稽古をしたのは結構なことではありますが「私はお茶の稽古を長い年月してきたのだ。そこで自己解脱もした。だからそこらの若い者やそこらのお茶人とは違うのである。声高らかに誰に対しても注意もして良いし、偉そうにお茶を飲んでもよいのだ。私はお茶の稽古を長くしてきたのだから、何してもかまわない」と悟りや年月そのものが人間をダメにしてしまいます。

全くもって不自由な者であります。

規矩を離れずして、自由なのです。

「仏縛法縛」という言葉もありますが、仏に縛られ、法に縛られてしまうのであります。

それではいけないのです。自分の絶え間のない歩みを邪魔するものは我祖仏共々切り伏せなければなりません。

そこで、悟りが開いたら悟りそのものを忘れなければいけません。もっと言えば、手放さないといけないのです。

パンッとなったものも一つ一つ忘れてしまうのです。

中国の『荘子』という書物に「筌は魚に在る所以なり、魚を得て筌を忘る。蹄は兎に在る所以なり、兎を得て蹄を忘る」という言葉がございます。

「筌は魚を捕るためのものだから、魚をとってしまえば筌はもう必要はない。蹄は兎をつかまえるためのものだから、兎をつかまえてしまえば蹄に用はない」という意味になります。

筌も蹄も手段の一つでしかなく、決して持っていることが目的ではないのです。

目的はあくまでも魚や兎なのです。その魚や兎が悟りなのです。

もっと言えば、悟りさえも手段でしかないので、捨てて新たにしていかなければならないのであります。そうしなければ、腐ります。

いったんその境地を手に入れたなら、それまでの手段となったものは必要がありません。

これを「忘筌」というのです。

「般若心経」にも「無智亦無得」

智も無く、また得ることも無く。何も分かったものなどないというのが本当の智慧なのです。

「さとり?そんなものは得たことも見たこともない」と言わねばならないのです。

本来の悟りなど忘れてしまう。それが「忘牛」であります。せっかく苦労して手に入れた牛を忘れていくのです。

では、今回は忘牛存人、前回と同様に序と頌、訳をのせてお話します。

忘牛存人 序

法に二法無し、牛をしばらく宗と為す

蹄兎の異名に喩え、筌魚の差別を顕わす

金の鉱を出づるが如く、月の雲を離るるに似たり

一道の寒光、威音劫外

忘牛存人 序(訳)

真理や法が二つあるわけではない、ただ仮として牛を真理の宗としただけである。

蹄と兎という別の名前に喩えて、筌と魚とを区別しただけなのだ。

ちょうど純金を金鉱から採り出したり、月が雲を離れたようなもの。

もとは一つのすざましい光、それは永遠に変わることはない。

忘牛存人 頌

牛に騎ってすでに家山に至ることを得たり

牛も也た空じ人も也た閑なり

紅日三竿、猶お夢を作す

鞭縄空して頓く草堂の間

忘牛存人 頌(訳)

牛にのってやっと故郷の家に帰ることができた。

牛の姿が見えないし、人もかくものんびりとしているではないか。

太陽が高く昇ってきたのに、彼はまだ夢うつつのようだ

鞭と手綱は放ったままにして。

 

十牛図の中の第七話にあたる「忘牛存人」は童子が牛に乗り、故郷に帰り、家でのんびりとしている状況から始まります。

自ら主となり、自らに由り、自らが在るべきところにいるということなのです。

この世の主人公としてドカッと坐っているのです。

しかしながら、ここで安住して悟りというものをありがたく抱いて、持ち続けてしまうと身も心も腐ってしまいます。

人も家でダラダラと過ごしていてはダメになってしまうのと同じなのです。

ある禅者は言いました。

「終始悟りとして残るような悟りは、悟りではない。それは悟りの臭気が強すぎる悟りといわれる。悟りは、悟りそのものとなるには、悟りそのものをも失わなければならない。かかるものが悟りである。」と。

自己が分かったのなら、本来の自己や面目や本性なるものに縛られる必要はないのです。あるがままの自己こそ自分なのです。

あるがまま、なるがまま。それでよろしいのであります。

そこに悟りというスパイスをいつまでも振りかけなくてもよろしいのです。

内にある剣の名前を覚えていますか。

それは「吹毛剣」とよばれるものです。

碧巌録に「吹毛剣」という言葉があります。

吹毛剣とは字の表している通り、ふわふわと落ちてくる毛を真っ二つにするほどの切れ味の鋭い剣を申します。

それは妄想や妄念、悪念などを切り伏せるためのものと言われていますが、切るべきものはそれだけではありません。

それほどの鋭い剣でこれ以上、何を切らなければいけないのか。

最後に切るべきものは私たちの心であり、悟りともいえます。

内にある剣で心に固執させるものがあるのならそれをスパッと切る。

心を新たにして自由な私を取り戻していかねばなりません。

鋭い剣を維持するためには、常に剣を磨かなければいけません。

同じところで安住してダラダラするのではなく、常に不断の努力をするのです。

また、切磋琢磨することが大切ということであります。

この剣の扱い方を知っているならただ上手く扱えばよいのです。

しかしながら、どんな剣も切りまくり、切り続ければ必要がなくなります。きれなくなった剣をお守りのように持ち続けるのではなく、捨てること、そしてその剣のことも綺麗さっぱり忘れてしまうことも成長には必要なのです。

身体の成長に伴い扱えるものが増えるように、心の成長により扱える剣も違うのです。

そして、最終的に到達する先は「剣さえもいらない」私がいること。

これが忘牛の忘れ綱、心の忘剣という意味につながるのではないでしょうか。

剣も鞘も必要なくなった時に本当の平和が訪れるのであります。

お釈迦様は「己こそ己のよる辺」と申しました。

しかし、その本当の己も忘れてしまう必要があるのです。

そうしなければ、人は人で無くなってしまいます。

独りよがりほど空虚なものはございません。

中身がないものを有難がり、持ち続けるほど悲しいものはありません。

中身があると思い込んで外を立派に着飾ってもそれは一過性のものでしかないのです。

内にいる本当の自分を信じられてこそ、分かってこその実りです。

何かに依存してそれでもって自信を持つ源泉にするなどもってのほかです。

何かを先に磨き自信にするのではなく、同時に外も内もともに磨いてこそバランスのとれた本物の立派な人といえます。

その人が立場を持っているから人が集まるのではありません。

その人の生き方や真心を慕い、自然とその人に人が集まってくるだけなのであります。

自分だけの成長や幸せを願い「自分がこの世の中心!他はどうでもいい」となっている者に人は集いません。

皆が主人公であります。しかし、私たちは一人では生きていけません。

常に多くのものや人に生かされているのです。

どんな物語も自分だけで作れるはずもありません。

私も主人公だが、貴方も主人公である。と思える心と敬う心を失わないことが大切なのであります。

そして、自分の物語を引き立ててくれるすべてに感謝できなければいけないのです。

また、自分の行いに責任をもち全うすることも大切であります。

その時、その時の感情に左右されて本当の自分を失わないようにしなければいけません。

人の想いを表面でとらえてはいけません。一つの出来事があったからと今までの自分が消えてしまうわけではありません。みなとの歴史が消えてしまうわけではありません。

何でそうなったのか。をよく考えること。それが大切です。

そして、一つ一つ思い出してください。

どれほど自分が受け取っていたのかを。どれほどお返しできていたかを。

新約聖書にある「与えよ、さらば与えられん」という言葉もあります。

与えることで魂は一歩一歩と高まり、昇華するのです。

自分ばかりが受け取り、相手に与えることができないと魂も命もやせ細ります。

あるお侍さんと禅僧のお話を略してします。

ある侍が極楽地獄について説明してみるようにと、禅僧に挑みました。

それに対してこの禅僧は蔑むようにこのように答えました。

「お前はまったくの愚か者だ。中身のない糞だ。お前のような者に時間を無駄にすることはできぬ!」

それを言われた侍は激怒して、鞘から刀を抜くとこう怒鳴りました。

「無礼者!死にたいか!」

すると禅僧は穏やかに答えました。

「それが地獄です」

侍は自分を捉えた激しい怒りの指摘のなかに、真実を見て驚いた。気持ちが静まって刀を鞘に納めると、侍はお辞儀をして、新たな洞察に対する礼を言いました。

そして、それこそが「輝き、極楽です」と禅僧は言いました。

この禅僧は何を言いたかったのでしょうか。

蔑むような激しい感情を侍にぶつけたと思ったら、穏やかになりました。

なんでこのようなことをしたのか考えてください。

自分の感情に左右されるほどくだらないものはありません。

また、自分の感情を上手く押し殺しているつもりでも見抜かれるものです。

心理学的にも一つの言葉に過剰反応することや一過性の感情に左右されるのはくだらないことであるといわれています。

感情に左右されないようにするということがすごく大事なところであり、感情を上手く制御することによってどんないいことが起こるかというと、行動の中の反応ができるようになるようです。

内に秘める「吹毛剣」は恐ろしいものです。

これは良いことばかりではなく、時にそれで相手を傷つけたりしてしまいます。

そして、この剣で人を傷つけていることを自覚しないからよりたちが悪いのです。

気をつけましょう。

話が少し脱線してしまいましたが、「忘牛存人」の序と頌を見ていきましょう。

法に二法無し、牛をしばらく宗と為す

牛を捕まえた自分と、捕まえられた牛とは分けられてはいないのです。

教えや法に二つもないのです。一つが二つとか、二つが一つ。などもないのです。

悟った自分と悟られたものが別々にあるのならそれはまやかし、偽物であります。

人も牛も同じであった。人牛一如。天地一体、有無は忘。

今まで自分自身を失ったことがありますか。身と心が一度でも分離したことはありますか。

失った。と思っただけではありません。

今までの十牛図は自分探しの方便として書かれたにすぎません。

尋ねる牛を仮の真心として取り扱っただけであります。利用しただけであります。

法に自分に二物はないのです。

蹄兎の異名に喩え、筌魚の差別を顕わす

蹄は兎をとるための罠のことであります。筌も魚を得るためのものです。

最初にお話しましたが、中国の『荘子』という書物に「筌は魚に在る所以なり、魚を得て筌を忘る。蹄は兎に在る所以なり、兎を得て蹄を忘る」という言葉がございます。

「筌は魚を捕るためのものだから、魚をとってしまえば筌はもう必要はない。蹄は兎をつかまえるためのものだから、兎をつかまえてしまえば蹄に用はない」という意味になります。

筌も蹄も手段の一つでしかなく、決して持っていることが目的ではないのです。

目的はあくまでも魚や兎なのです。その魚や兎が悟りなのです。

もっと言えば、悟りさえも手段でしかないので、捨てて新たにしていかなければならないのであります。そうしなければ、腐ります。

いったんその境地を手に入れたなら、それまでの手段となったものは必要がありません。

これを「忘筌」というのです。

真実が分かってしまえば、牛も仏性もいらないのです。

つかまえるために罠を用いただけであります。

一度悟ったら罠もいらないのです。

それをいつまでも有難いものと崇めることは愚かというものです。

さっさと悟りという名の牛も兎も魚も食わないといけません。

罠に気を取られ、獲物を忘れてはなりません。さぁ食べよ。食べよ。

金の鉱を出づるが如く、月の雲を離るるに似たり

忘筌に徹したら、それは金の鉱脈から原石を掘り起こし、金に精錬したようなものであります。

この輝く金を鉱脈に戻しても、輝きは失われません。

さぁこの世にダイブしてもよろしいでしょう。貴方の輝きは人と比べられないほどの眩しい。

自分がどんな場所に立っていても人がその光を求めて集まってきます。

この不変の輝きに金の価値はあるのです。

一度悟りを開いたら、悟りは二度と同じ煩悩と一緒になることはありません。

悟りとは何だったのでしょうか。

悟りとは仏そのものではなく、自分の真ん丸な完成された世界なのです。

その完成した世界にくだらないものは二度と入り込めないのです。

月とて同じです。雲に隠れたからとこれ、どけろや!とは月はなりません。

村田珠光の有名な言葉に「月は雲間のなきは嫌にて候」という言葉がありますが、雲さえも自分の衣装のように月は美しく纏えるのです。

そして、時くれば顔を覗かせ、私の心にぽわぽわと浮かぶ、照らしてくれていたではありませんか。

雲が晴れればそこに月があるのです。私たちの心の雲で月が見えなかっただけであり、月はずっと輝いていたのです。それに十牛図の学びで気付けたではありませんか。

私の心は月に似たり。とも申しますが、真に美しい月を皆さんそれぞれ持っておられるのです。

真っ暗闇の中で眩しい月が輝き、辺りを照らしすべてがにこにことしている。

闇の中、ひとつの蝋燭が灯り、すべてが開ける。

この世は美しいのです。人も美しいのです。

今までの環境が悪かっただけなのです。雲が深まっていただけなのです。

皆さんのお心には煌々とするものが確かにございます。

仏国国師はこのように示しています。

雲晴れて後の光と思うなよ

もとより空に有明の月

雲が晴れたことで、はじめて月が出たかと思ったかもしれません。

しかし、お茶の稽古や坐禅をして雲が晴れれば、そこにはっきり輝く月が明らかになっているのです。

もとより真ん丸な月は我を離れず持っているのです。

一道の寒光、威音劫外

月の光は世界そのものを照らす「一道の寒光」

実に凄まじい光であります。

過去現在未来を光で一道に貫き、無限空間、無限時間も貫き、仏さえも悟りさえも貫いてしまう。

世界さえその光を抑えることはできないのであります。

このような光の存在が分かっての「忘牛存人」です。

一休さんの歌に

おしなべて心一と知りぬれば 浮世に巡る道も迷ず

とあります。

我が身というのは、借り物の道具でしかないことに気づきました。

また、大小の器もなかったのです。世界はもっと無限であったのです。

定めのない世の中でも、心一つ、真実が一つとわかればなれば、世の道に迷ったりはしません。

歩々する我が身に清風を起こし、心の空を明るく、晴々。

山是山水是水という極々常識的な世界をいっぺん疑い、山は山ではなく、水は水に非ずとなりました。その次に訪れるのはまた山は山でしかなく、水は水でしかなかったということがわかりました。

しかし、今家から見ている山は前の山ではなく、水も前の見ていた水ではありません。

萬里一条鉄、この一本の鉄で実相、無常の世界を天地さえもぶち抜いてこそ真実の姿は現れたのです。

ぶち抜いて底を抜けたときに山は山であり、水は水である。と分かったのです。

牛に騎ってすでに家山に至ることを得たり

牛も也た空じ人も也た閑なり

牛に乗り我が家に帰ってみると、牛に用はない。

ここにいようが、どこかに消えようが関係ないのだ。

好きにしたらよろしい。

牛なんて忘れてしまった。どんな形、どんな鳴き声、どんな色かも覚えていない。

悟りなんてものは食えないものであったな。くだらないものであったな。何とも閑である。

この世に求めることなど何もない。人に求めることもない。

ご飯を食べる時は目の前の飯に全集中して只管食い。お茶を点てればお茶に喫する。

遊ぶ時は全力で遊び、何もしないときは何もしない。寝る時なったら眠る。人生の終着点に着いた景色だな。

多くの者は目的を探しているが、目的があるうちは終着点ではない。

家ですることなど決まっている。目的があって家にいるのではない。

飯に会えば食い、茶に会えば茶に喫する。それだけである。

さぁ日常茶飯事、日常茶飯事。

人生の終着点に着いたら求めるものはないのだ。「我此処に足り、ここに人もまた閑」

あってもなくてもよい、生きても死んでもよし、喜怒哀楽もなくてもあってもよい。

雨降っても雲が出ても、晴れてもなんでもよいのだ。

日々是は好日だな。何とも楽しい。

紅日三竿、猶お夢を作す

太陽が空高くあっても、物干し竿に洗濯があっても、まだぐっすり寝る。

ここは誰にも邪魔されない我が家なのだ。誰にも遠慮なく日暮らしするのだ。

大いにだらしなく、大いに遊び、夢を見るのだ。

魂がウキウキとしており、大いに図太くなったものだ。

素晴らしい夢を見ようではないか。明日など知らんわい。今が肝心なのだ。

こんな境界を一つ味わってみると面白い。

長年求めてみた真実もことごとく自分のものにして、外に求めるものなどない。

さぁ今を作ろう。

鞭縄空して頓く草堂の間

牛を引っ張ってきた縄も、歩かせた鞭も、そんなもの必要がなくなった。

家の剣で兎や魚をさばき食ってしまった。

剣もいらんわい。

あそこの物置の影にでも放っておこう。

今まで大事に持っていた「禅茶録」「碧巌録」「無門関」「臨済録」、やれ「十牛図」などのそんなくだらないものに用はない。公案だの、印可や資格、立場などもそんなもの生きるのに何の役が立つのだ。

ある師匠が「お前に印可証明をやろう」と言ったそうだ。しかし、それを聞いた弟子が「火を持ってこい」と言ったようだ。

印可も法衣もいらん。お釈迦さまから伝わる教えもいらないのである。

我が家に帰り、世界が我がものになった。

ここに坐すだけで動植物が集い、ともに歌うのである。

我から出かけなくてもよろしい。

ことごとく我が家なのだから。ことごとく我が子なのだから。

太陽が月が空高く昇ろうと好きなことをする。

この世の美しさや人の美しさを知らずして、まだ分別の世界にうろつくのかい。

その人がいい、この人が悪いと決めつけて、損か得かとまだ右往左往するのか。

ある茶人も申していた。

ならひつつ見てこそ習へ習はずによしあしいふは愚かなりけり。

人をこの世の真心も何一つ知らんくせに、一つの道に習ってもいないのに良し悪しいうのは愚かな事ぞ。

人の光を見て満足しただけだ。自分の光に気付かなければならぬ。

人の光や立場、幸せに嫉妬するなどくだらない。

さぁもう一度寝よう。

以上が第七の忘牛存人のお話であります。

前回もお話しましたが、ある禅者の言葉をもう一度申します。

「禅の要求するのは、我々が生きていく上において、或る確かな自覚の経験をもつということである。この自覚が我々人間を他の形の生物から質的に違ったものにするのである。そしてこの自覚にこそ、我々が千差万別であるにもかかわらず、平和の究意の住処を見出すのである。」といいました。

また「自主自立の獲得に最も必要なことは、自分の行為に対して責任をもつことである。」と

平和とはなごやかなことを示しています。

自ら目覚めることで無事安心、平和な世界が訪れるのであります。

詩人の坂村真民先生の「限りあるいのちを持て」を紹介します。

限りある

いのちを持ちて

限りなき

いのちのひとを

恋いたてまつる

いきとし生けるもの

いつの日か終わりあり

されど

終わりなきひといますなれば

一日のうれしかりけり

一生のたのしかりけり

命は不完全な時、魂は未完成であります。

魂が不完全な時、命も完成しないのです。

大いなるものの有難さに気付き、それらに抱かれていたことを。

あの人に自分が生かされていたこと、多くに生かされていた自分。

そんないのちの灯に気付き、感謝できるからこそ魂は太くなっていくのです。

自分だけが良ければいい。なんて浅ましい考えではいつまでも魂は未完成のままであります。

すべてに意味はあるのです、そして、全ては無意味に帰るのです。

初めは意味があっても、後にそれは無意味のものになってはいませんか。

それを意味あるものとして消化して、次に生かし、もう無意味とできるのは自分だけです。

悟りだけではなく、意味や出来事は忘れなくてはいけません。

それが忘牛存人の一つの教えなのではないでしょうか。

完成した魂を携え、命が燃えるまで人生を生き尽くす。それが大切です。

そのように生きるためにも、まずは自分の命や魂を完成させなければいけません。

臨済禅師は「求心やむ処、即ち無事」と申しました。

外に向かって求め回ることをやめて、足りていることを知れたなら、即時に無事、大安心なのです。そして、大自在の働きが出てくるのです。

外に求め回ることをやめ、一切のはからいの心を捨てて、何もしないという無為こそ無事安心を知る法であるということなのです。

自分が自分として生き尽くす尊さを知り、自分が今を無事に生きている有り難さに気付き、自分が多くに生かされていることに感謝しなければいけません。

また、人生が満足と分かったから、現成受用をできるようになるのです。

何を言われてもその通り!と言えるのです。

私はこのように思います。

生きているのはおかげさまがあるから。

生きているという真実は何よりも価値のあること、そして生かされていることに気付き、私を生かしてくれている、この世に、人に感謝を伝えて報いてこそ、貴人であると。

外に求め回りはしないが、外に出て一人一人の和顔と無事を願い、感謝報いる。

私を生かしてくれるあの人の恩に報い、自分なりにお返しをして、ありがとう。と真心から伝える。

それが無事是貴人の本来の姿ではないでしょうか。

私だけ良ければ善とするのではなく、和顔と愛語、無事安心な心を人にも伝え回ってこそ真の貴人であります。そして、感謝に行じてこそ立派な人と成れるのです。

人生の満足とは有難味の中で生きている自分に気付けるから感じられるのです。

人生を実りあるものに導き、人生を生き尽くせるのも自分自身です。

そして、その答えは案外身近なところに隠されているものです。

自分がこの世の主人公、この世は我が家と真の意味においてのわかることはすごいことなのです。

また、心一つ、身が一つ無事なることほど有難いものはありません。

次のお話は「人牛倶忘」であります。

さぁどのような境地なのでしょうか。

次回、お楽しみに。

家で坐す 飯食い 茶飲み 日々閑人

関が完と閑閑と

坐して眠るも命は覚

佐々木宗芯

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