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十牛図のお話 一「尋牛」

「十牛図」とは、人が本来持っている心、悟りとも、己事究明ともよばれるものを牛に例えて、その本性を求めていく修行の過程を十の絵になぞらえて伝えているものをいいます。

十牛図は、12世紀に廓庵師遠禅師によって作られたものとされています。

十枚の絵と各章にある頌は廓庵師遠禅師自身の作であり、各章の小序は廓庵の弟子といわれている慈遠の作といわれているようです。

では、序と頌、私なりの訳をのせて、十牛図の中の最初のひとつ、第一の尋牛についてお話をします。

尋牛 序

従来失せず、何ぞ追尋を用いん

背覚に由って以て疎と成り、向塵に在って遂に失す

家山漸く遠く、岐路俄に差う

得失熾然として、是非鋒のごとくに起こる

尋牛 序(訳)

元来何も失っていないのに、何で探し求める必要があるのか。

覚りに背を向けるからそれは余計に離れてしまうのだし、迷いの方へと向かうから本当に大切なものさえも遂に失ってしまうのだ。

彷徨っているうちに、家や故郷の山はだんだんと遠くになり、道が分かれて余計に迷ってしまうことになる。

道が分かれると、こちらが良いとか、あちらが悪いとか、どちらを選ぶべきとか、あれやこれやと迷いがたくさん起こるばかりだ。

尋牛 頌

茫々として草を撥い去って追尋す

水闊く山遥かにして路更に深し

力尽き神疲れて覓むるに処無し

但だ聞く楓樹に晩蝉の吟ずることを

尋牛 頌(訳)

果て知らず、あてもなく草をはらいわけ、どんどん奥へと追い求めていく。

河は速く広く流れ山は遥かに大きくなり、道はさらに深くなるばかり。

力が尽きて心も疲れ果ててしまったのに、どこに向かえばいいのか見当もつかない。

ただ楓の樹に、今にも死にそうな蝉の幽かな声が聞こえるばかり。

 

十牛図の物語の第一話である「尋牛」は童子が牛を尋ねていくことから始まります。

発菩提心、真の本性を究明求めていくという願心を起こしたといえます。

人は生きている目標やこの願心を起こさなければ、人生という道は無駄に終わってしまいます。

眠ったままではだめだ!よし、やってやろう!叶えてやろう!といった気持ちが沸き起こると人は動き出します。

また、生きているうちに覚らなければいけないとする願心を起こした、時点でここに立派な悟りはあるのです。はじめはおわりに、おわりははじまり。であります。

また、辿り着けるまで歩き続ける!頑張る!とする覚悟と心さえ失わなければ、必ず到達できるように導く方便として十牛図はあるのです。

そのため、十牛の一である尋牛は大切であります。

ひとつ、ひとつ序と頌を見ていきましょう。

従来失せず、何ぞ追尋を用いん

失ったと思ってしまう本来の自己や面目をつかんでゆくということ、もっと良いとする自分の心を自覚するということから、牛を尋ねていくのではありますが、身体や心は一度でも失ったことがあるのでしょうか。

今、こうして心も体もよく動いている。本来の自己や面目というものを失った覚えの方がないのではないだろうか。自己の面目や本性を一度でも説明できたことがあるのか。

生きている過程でこれは悪い牛、良い牛と分別を覚えたばかりに、完璧な牛を求めてしまっただけではないだろうか。

本来の心も体も本より無く、すでに本来を持っています。

なぜなら、人は一度だって生き忘れることはありません。

息を吸わねば生きられないし、だからといって死にたいからと自ら息を止めることはできないように。自然とすでに一体になっているものです。

では、すでに立派な自分がいながら何故、牛を探し求めに尋ね出かけなければいけないのか。

身体がありながら、身体はどこ。というように。心が働いておりながら、心はどこ。とおかしいことをしています。

暗い迷いの中でこそ光明が見出され輝けるように、明るくすべてを照らしているなかでは、光明があることさえも気づけない私たち人だからこそ、自らを迷いの中に誘うのだと思われます。

泥水の中から、一輪の美しい蓮のように、人も迷ってみなければ牛を得ることも、輝くこともできない。

背覚に由って以て疎と成り、向塵に在って遂に失す

人は自分をもっていながらも、本来の面目を保っていながらも、別の世界、感覚や肉体、感情の、分別の世界にのみ本当の自分が生きられるのだと、それらに執着します。

この気持ちこそ本来の自己や心に背いているのではないでしょうか。

人は生まれながらにして表も裏も一体にある美しい存在であります。

それでも、人が求めるのは表の良き方ばかり。裏に隠れた真の美しさには背を向けてばかり。この気持ちの働きこそ分別をしている証ともいえます。

本来の自己とは有無より生まれた有心、無心の絶妙なバランスにより成り立っていながら、有心ばかりが強く出る。それでは、いけないのです。

有心はとんでもない考えや分別をもたらします。それでは、失ってばかりです。

良い・悪いと自己を中心とした分別という色眼鏡を通し、この世や人を見るから、余計わからなくなり苦しくなる。

五欲俗塵の世界に落ち込んでしまった分別の知恵が、本来の自己を余計に遠ざけてしまう。

有無さえも忘れる無の心にこそ無分別な本来の自己は宿ります。

家山漸く遠く、岐路俄に差う

ますます分別の世界へ落ち込んでしまっています。

一つであった道が二つに分かれ、二つが三つに分かれ、そして道は無限に分かれ続ける。

道が無数にありすぎて訳が分からなくなっています。

一つの分別が別の分別を呼び、さらに分別を新たに生じさせている。

分別が行き過ぎると人はどうにもならない地獄に落ちてしまったかのような心境になってしまいます。

しかしながら、分別があるからこそ無分別な世界を知ることが後にできるのです。

得失熾然として、是非鋒のごとくに起こる

分別の知恵がさらに研がれ、熾然として、わざわいが燃え上がるかのように次々起こってきて、どうにもならないような気持に落ち込んでしまっています。

これでは、身体も心も衰弱してばかりになります。

一つのものを独占しようとすると、そこには不平等や争いが生まれます。

バナナを例にすると、熟しているほうが美味しいから待とうというもの、青いものがよいからすぐに食べたいというもの。

そう分別せずに私は貴方の食べたい方を食べると。皆が譲り合えば、皆が満足できる平等が生まれます。

貴方が食べたいものを、あなたがしたいように。と譲れば、ありがとう。ありがとう。と言い、皆が円満で満足できます。

これこそが無分別な平等の分配です。

満足できる真の自分とは分別の世界にあるのではなく、分別を超越できた高いところにあります。

その分別を超えられたところに平等な人格、有無があるのです。

この無分別な平等の人格を互いに拝める世界に救いはあったりするのではないでしょうか。

それでも、分別の世界に落ち込んでしまった私を救おうと努力すること、分別のない牛を探しに出かけることは、人生の探究にとても大切なのではないかと思うのです。

分別を超えた本来の自己に気付けたことが、幸せという種を生み出すのです。

だからこそ、願心を起こし、牛を求めなければいけないのであります。

茫々として草を撥い去って追尋す

よし!探そう!と願心を起こしたものの、見渡す限り妄想や煩悩という草だらけ。

はらって、はらっても、どこにも牛は見つからない。どこを尋ねたら牛は見つかるのだろうか。願心を起こし、頑張っているものの、妄想は起こるばかり。

いっその事、やめてやる。牛なんていないのだと自暴自棄になってしまう。

人は努力がすぐ実らないと見性なんてありはしない。とすぐ諦めかけてしまう。

すぐ実らないからこそ、価値が大きくなることを知らないのです。

すぐ実るものに、人は価値を見出しません。

お茶の稽古もすぐに実ると思い込んでいるうちは苦しいものです。

草があるなら、自分が牛になってみて、草を食んでみればよろしい。そうすると牛の心がわかり、進むべき道がわかるかもしれません。

水闊く山遥かにして路更に深し

迷いの山も河もどんどん、大きくなるばかりで通過できそうにない。

この山や河を越えて、向こうの奥まで尋ねにいけそうにない。

何故なら、人にこの山河を抜ける術を知らないから。

抜けるには先ずは山を山と思わず、河を河と思わないことであります。

覚悟決めて山に入れば、入るほど、道は細くなり、気持ちまで心細くなる。誰かに道を尋ねるにも、人影もなく、余計に悩ましい。

どこに向かっていて、どこに行けばいいのかもわからない。

「稽古をすれば、自然と分かるかも。分からないと尋ねれば。詳しく師匠が教えてくれるかもしれない」と思ったのに、さっぱり教えてくれない。それどころか厳しいばかり。

お茶の本当の深みを覚るには、人に頼らず深淵に己をひとつ頼りに入ってみなければわかりません。

力尽き神疲れて覓むるに処無し

長年、頑張ってみたが、疲れるばかりでいつまでもわからない。

こんなことでは、永遠に自己の本性や面目を見性することはできないではないか。

疲れてしまった。やだな。逃げたい。と思う気持ちの方が強くなる。

いっその事、投げ出して、日常が楽しければよし、自分だけ良ければいいのだ、そうだ!怠惰に暮らそう、願心、目標なんて捨ててやる。

でも、それで良いのかさえもわからない。

葛藤が始まります。

少し話は変わりますが、お茶の話をいたします。

茶の湯の世界は非日常でもあります。日常の塵や汚れを茶の湯の清浄な世界に持ち込んでは、非日常の中で生まれる、新しい自己の側面、純粋無垢な自分、本当の癒しには一生気付かないでしょう。

但だ聞く楓樹に晩蝉の吟ずることを

ふっと樹を見てみると、今にも死にそうな蝉がジージーと鳴くばかり。何も分かったものはない。情けない。

そんな悩ましい境涯になるのが尋牛であると言われています。

ここで、棒を折り捨てて、辿った道を戻っては、役に立たないどころか、何にもならないまま終わってしまいます。

牛を求めて入り口に一歩入ったものの、こんなにも果てしなく、つかれてしまう。

貴方は一人ではないと教えてくれる蝉の精一杯の声さえも届かない。

人は決して一人ではありません。別の「人」という存在を頼り求めるから、自然の持つ有難味を知らないだけなのです。

耳をすませば、蝉の言っている意味だって分かるはずです。でも、疲れ果てている自分には聞こえないだけなのかもしれません。

しかし、意識してみましょう。周りに囲まれている自分というありがたい存在に。

上をみて、下を見てみる。そんなところに牛の足跡はあるのです。

見つけるまで頑張ってやる!とする心さえ失わなければ、必ず牛の足跡は見つけられます。

また、尋牛は一であります。

そのため、尋牛は覚悟の道を最初に問う関門ともいえるのです。

お茶も飲んでしまえば、身体と心に自然とあるものです。

あとは、それに気付ける自分を見つけられるかどうかであります。

以上が第一の尋牛のお話であります。

自分という存在、人という存在をはじめて疑うところにすでに信はあるのです。

自己を肯定する、相手を肯定する、自分も相手も信じるということがなかったら、疑いは出てこないのです。

救われるのだろうか。本来の自己や面目を覚ることができるのか。と疑うところに到達すべき信はあるのです。

信があるから疑えるのです。ただ、疑いに心が捉われてはいけません。

ある禅者はこのように申しました「すべての始まりは、自らが主となり、自らに由り、自らに在り、自ら考え、自らを批評することを学ばなければならない。すべてはこれから出発するのである」と。

お釈迦様も「己こそ己のよる辺」といいました。自分が拠り所とするべきは自分であるということであります。

正しく調えられた本来の自分、真の心を自覚して、真の自己を呼び覚ます。それを拠り所として人生を生きていく。これがお釈迦様の教えられた仏教の基本ともいえます。

その本当の自分や本来の面目などを牛に例えて、その牛を探しに行く旅の始まりを尋牛といいます。

そして、茶道は本来の自己や面目を覚らせ、己事究明する手段としても大いに有効であります。

お道具を清める時、茶杓を清める時、心の塵を拭うかのように、心を清めるように帛紗を扱います。

また、お茶と自分が一体化するように、ひとつ、ひとつのお道具に心を集中させ、無心で扱いきります。

その、心の働きに本来の自己や面目はあらわれています。

そして、お茶を点て、相手に飲んでいただき。自分も飲む。そんなところに覚りはあったりするのではないでしょうか。

眠りながら、お茶をできる人はいません。

次の十牛図のお話は「見跡」です。

やっと見つけられた牛の足跡。どうなるのでしょう。

合掌。

家を背に 何処におるか白い牛

山河を供に道を拓いて

蝉は知らせる牛の在処

佐々木宗芯

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