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加減を知る 物語の始まり

過ぎたるは猶及ばざるが如し『論語』

『何事もほどほどにすることが肝心であり、やりすぎることは足りないことと同じように良いこととは言えない』

また、『水準を越した師も水準に達しない商も、ともに十全ではない。人の言行には中庸が大切である』という故事からも来ているようです。

お釈迦様も生きるということは「中道」である。と言われました。

善道によれば、本性を失い迷子になる

悪道によれば、本性を失い迷子になる

自分であること、本来持っている自分さえも無くしてしまい。迷子になってしまいます。

金剛経にも『仁義礼智信を行ったとしても、敬うに値しない』

荘子にも似たように『本来人間に自然に備わっている道徳を打ち壊して、仁義礼法を作ったのは、聖人の過ちである』

真実の道とは、私たち人や自然天地が存在する前からあります。人が自然と不自然を分け、天と地を引き裂いただけなのです。人は自己と他を分別する概念を捨てきれずに生きてきた、歴史上の線におります。

分別区別する概念を捨てきれないと、真の善行とはいえないのではないでしょうか。

有に生きれば 檻の中

無に生きれば 無限の暗闇

加減を知り中道を目指すこと。即ち有無中心

私たち人は「一人である自分」に酔ってはいまいか。

ありありと「修行をする」「ぜんを成す」「私は私」「苦しい」「幸せ」「生きたい」「死にたい」と口にし、心に思う。

私たちはいい加減に生ききることの加減を知らねばならない。

お酒も自分の加減を知らずに飲めば、酔いがまわり、クラクラに。

食も食べ過ぎれば苦しい。

なくなくと「ほしい」「得たい」「知りたい」「悟った」「生きる」「死ぬ」と口にし、心に抱く。

良い加減知らねば。

立花大亀老師は「利休に帰れ」というご著書の中で

客もなし亭主もあらで道具なし ただあるものは松風の音

松風の音のあるのもくい多し 尉になり行く炭を思へば

炭思ふ心のあるもいたましや 良き品なくて黒ふするなり

苦労する事のある事御茶なれや 掃除打水ぞうりならべて

ぞうりこそ客にはかせるものなりや こころ行く迄客の接待

と書いております。

人間関係とて同じです。

現代の精神的苦労の多くは「人間関係」から発生していると言われています。

ある臨済宗のお坊さんは「人間関係も良い加減で」と言っています。

お風呂の温度の適温が人それぞれ異なるように、人間関係のほど良さも自分で知らなければいけませんよ。と。また、ひと昔前は、裕福ではなくとも、みんなで生きていこうとする気持ちから、絆を育んだ、しかしながら、今は好きなように生きる考えが強い、人の間と書いて人間。人は、一人では生きられない。

随所に主と作れば、立処皆真なり

私もあなたも個として生きる主人公です。どんな場所でも、いかなる場合でも、主体性を持つ、自分が居れば、主人なのです。

しかし、主人公がいる。ということは「私」から見れば脇役が多くいるのも事実です。

どんなに主人公でも、一人ではよいお芝居ができません。

脇役の一人、一人にも目を配り、大切にしてこそ、名主人公として立てるのです。

時には、私がある物語の脇役に徹さなければ、上手い物語は完結できない可能性だってあります。

物語を作る、お手伝いをするには、自分なりの物語から完成させなければいけません。

人に安心すると、その人はいつの日か私の前から消えて、失い、離れてしまうかもしれません。

それでは、自分の物語も未完のまま、終えてしまいます。

一度失われたものは、それを大きく上回るだけの力が必要です。

例えば、一度失った信用を取り戻すとき、失われた以上の努力をしなければかえってこないのと同じです。

先ず何よりも大切にして優先するべきは、身近な人である家族や恋人。

それは、自分の身を犠牲にしての云々ではなく、一人よがりの思いやりではない思いやりを家族や恋人に、そして、心から大切にするということです。

Disneyの美女と野獣の物語のように、運命の物語は突然起きます。

数奇という言葉は「好き」ともなります。

『史記』「李将軍伝」の「李広、すきを考える」には「服虔いわく、事をなすに、数を揃えず」

また、『漢書 李広伝』師古の注に「片われにして、相揃わず」

とあります。

「自分は主人公ではない。自分が自分ではない気がする。私はどこか私ではない。自分は片割れを無くしてしまった。」と思って生きている人がおります。

しかし、自分を主人公であるということを気付かせてくれる人、片われを一緒に見つけてくれる人、もしくは片われである人は必ず現れます。

片割れと片割れが真ん丸を描き、世界を作るように。

現れたとき、私の主人公としての物語の始まりを感じさせ、自分が自分となり、片割れを片割れと思わず、相揃ったときに道が生まれます。

それらは、きっとなぜだかわからないけれど、本能で直観でそう「この人」と思えるはずです。

一緒にそれらを成してくれる人は、あなたの良き物語を暗示し、道に光を生んでくれます。

この世に特別なんてありません。

しかし、当たり前のように「私にとって貴方は特別だよ」と言ってくれる人はいます。それは、物語の序章だったのかもしれません。

失わないように、無くさないようにすることが肝心です。

二度、手から離さないように。

恥じらいも、弱さも強さも捨てて、努力に精進、そして、大切にしてあげてください。

私はある人に突然「雷鳴のように響くのは愛」と言われたことがあります。

雷鳴は見え有りながらも、音を響かせるものは見えず無く

愛はありながらない、確かに存在する二人の心の中心(個とした片割れと片割れが相揃った状態)なのかもしれません。それは、いかなることがあっても永遠に千切れない絆の色の形なのでしょう。

良い加減にしましょう。加減よく生きましょう。

最後に一休宗純の歌を

いにしへも今もかはらぬわれなれば

われといふべきことのはもなし

良きかな 良きかな 心加減

いい加減 眼を覚まし 開かせ

相に雷鳴の如く愛の言の葉 響かせ伝えよう

手を鳴らし 心躍らせ よい踊れ

佐々木宗芯

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