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不足・不完全・美について

不という字はそうであろうことがわからない、なぜ不であるのかを考えさせられる不思議なそういう事柄であります。

人の存在こそを不とし、人はそれを思えず、頭や人と不について議論したところで、何も出ない。人間の認識や理解の外に不は位置するから、不思議で摩訶不思議。

不審、不完全、不足などの言葉ははっきりわからない、十分ではない、足りないなどとネガティブな言葉に使われると思えば、不審は禅語の「不審花開今日春」人間の人智を超えた自然の偉大さ、不思議さに感動するというポジティブな意味でも使われたりします。また、日本的美の極致は西洋の完全な美と異なり、不完全で不足な美であったりします。

人の認識や理解を超えた先にある、美しさの極致に私たち、日本人は不思議とひかれる習性があるようでございます。

不足や不完全なるを良しとし、心の目で美しいと見て、楽しんでしまう。

満月に例えていえば、雲に隠れている月の半分を自分の心であれやこれやと楽しみながら移り変わりを想像し、補わせ円満とし、その美しさに感嘆したいとする思いがあるのだと思われます。また、それらを心に想像し、焼き付けることで、余情性を生むことも考えられます。

村田珠光は空に満々となる月よりも、雲に少し隠れる月を美しいと言いました。「月も雲間のなきは嫌にて候」と。

心にある美や世界観を世に現出させる手段に「歌や茶の湯」があります。

歌は見えて見えない、この世や自分、不思議である事柄においてや無いものを有ると見立て、歌い、あらわにさせます。それらは、不足で不完全さを、心で感じ入り、世に言霊を発し、楽しんであらわにさせる行いともいえます。

竹野紹鴎は定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」に美を見出し、千利休は花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや」に美しさを見ました。見えないものを見る心を求め、その美しさに心思う。それが、日本的な美の楽しみ方でもあります。

歌にある美的表現や美的原理の源流が茶の湯に組み込まれ、生かされたりいたします。

茶の湯の実践においても、亭主は持っている知識や知恵、経験などを総動員して、古典文学、和歌や季節感を取り入れ、人やものを思いながら、道具を一つ一つ組んでいきます。

さらに申せば、利休の時代は茶道に関するすべてを一まとめに打ち破り捨てる無事安心の茶を極致としました。

それは、茶道を捨ててしまうというわけではなく、執着することなく、無視するでもなく、「茶」を自由自在に用いて、安心無事で望むということです。

茶道の世界は一器三様とも言われています。水指に使っていたものが、懐石の預け鉢になったり、菓子器になったりと一つの器が三つの器に化けるからであります。複数、個別を求めなくても、一つの道具を上手く用いる茶人の力量により、何にでも器は変化するということであります。

柳宗悦は茶人に求める資格の一つにこのようなことをあげています。

「美しさへの正しい直観を持ち、筋の通った道具の所持者であること。名品が揃わずとも、無銘品でもよく統一のとれた持ち方ができることが肝心であり、この力がないと美しさのことはわからない」と。

さて、話は少々変わりましたが、ここからが大切です。

心なる器とは。我が身は一つの借り物とみます。例えば、考えるのも、感情も、この道具のような肉体が思考し、あるように思わせているにすぎないのです。その事が世の常であるかのように。私に足りない、苦しいや悲しいといった感情でさえ、心ではなく、借り物の肉体が受け取り、発しているにすぎないのです。

足りない、足りないと嘆くのは、心がそう叫んでいるのではなく、肉体が「不完全で足りないことは良くないこと」と思い込んでいるにすぎないのです。

無茶なる器とは、無限に世界を、お茶や美を取り入れ、生み出せる空の器であります。

お茶は死を扱います。また、同時に生も扱います。

道具や茶室は死にものなのに、心まで奪われ、我が身を操られてはなりません。我が身まで死にます。

主人公はあなた。お茶にある生きるものと無事一体な世界を作ってみてはいかがでしょうか。

それが、無事で安心できる、本来清らかな自己の世界なのです。

その世界を求める私の姿こそ「無の先にある極致」

茶の世界の成就に結び付くのです。

何より、心の有りよう、ないようが大切なのです。

利休の無事安心とは、そういうものを示しているのではないでしょうか。

茶人は生まれたらすぐに滅してしまう、儚くも美しい世界を組んでいるのです。

儚くも美しい世界をみなで一緒に楽しみ尽くし、不完成を完成させたいと願い。

そのため、茶人は自分の持てる全てを総動員して、精一杯、今の世界を組んでいきます。

その心の働きには、自分の心やお客さんの心に余情として、残り続けるような世界を作り続けたいとする、お茶人の願いが働いております。

しかし、世界は忘れなくてはなりません。特に亭主は世界を創造した者として最後は壊し、忘れなくては、その良き茶事に心ごと奪われ、精進が叶わなくなってしまうからです。

人は世界を創造するたびに、洗練したものを生み出していきます。さらに洗練した心や世界を成就させるには、世界を忘れるに限ります。創造したら破壊するの繰り返しです。

兎に角、茶三昧であります。

美とは創造物です。自己のみが醸し出す世界です。

この世の万人共通で美しいとする事柄はありません。あくまでも、個人の見方により美しさは決定されるのです。

若き頃は美男美女に憧れ、美しいと見た。しかし、歳を経ると、見た目ではなく、心が美しい人に憧れ、美しいと見る。

私たち日本人は、昨今忘れかけてはいますが、本来は見た目ではない、見えぬ美しさを追い求める国民なのかもしれません。

自然も不自然も完全も不完全もありません。すべてが美しいと見れる心こそ、人の心の美しさの表れではないでしょうか。

厠が澱み汚れ、暗ければ、そこを清め、明るく照らせるような自分になればよろしい。

地獄が阿鼻叫喚で溢れているならば、地獄に光を照らし、一輪の花を鬼にも、亡者にも手向けれるようになればよい。楽しく申せば、地獄を極楽に、鬼にも涙、亡者には笑顔、お茶でも一服、一輪花。

この世、人は美しいと見える眼こそ、まこと得難き、光明なのかもしれません。

最後に一休さんを。

鬼といふおそろしものはどこにある

邪見な人のむねに住なり

鬼の目になみだは何の涙なる

ぢこくの釜の下がくすぼる

鬼に一服 亡者に花を手向ければ

地獄の釜も不用なり

釜は叫ぶ松風と 無茶や照らせやお茶三昧

佐々木宗芯

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