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一種に徹する

先日は早朝より不意に訪ねられた方と不時のお茶をしました。

私自身、思いがけないことで驚きはしましたが、楽しく幸せな一時をご一緒に過ごすことができました。

濃茶を練っている時、突然涙を浮かべ流されました。この時は「わからないけど、涙が出てくる」と仰っていました。

日頃より思い合い、多くを言わずとも通じ合えている大切な人であります。

この時も、言葉ではなく自然な心と心で語り通じていたものが二人の中であったのだと思います。

お茶は不思議なものです。

ところで、あれやこれが欲しいと思わず、一つの道具でお茶を楽しんでいますか。

昨今のお茶を見ていますと、どこかごちゃごちゃと忙しない気がいたします。

何かに取り憑かれているかのような気配も覚えます。

インターネットやSNSなどを拝見してますと、どこか競争的と申しますか、良いものを発表することや評価をもらうことが目的かのような投稿も見受けられます。

古今より侘び茶を尊ぶ茶人たちは道具を一種にして茶の湯を楽しむことを大切にしてきました。

これは、茶事において、その一会の趣旨に向かい主点となる道具を一種にしぼり、それに全集中するということであります。

武野紹鴎も「名物一種だにあらば、わび数寄するが本意なり」と申しました。

また、堀内宗心宗匠が古来の茶事の中で、異例と思われるほど徹底した、わび茶の極致として武野紹鴎の茶事をあげています。

それは、『天王寺屋他会記』宗達茶湯日記の中にありますので、ご紹介します。

天文十八年二月十三日朝 紹鴎会

客 宗三、源六、達、森可

一、めいしんてとり、つりて、

一、床、くり色のたなの上に、なすびのつほ台天目

中のとをりに、かふらなしにうす色のつハきを入テ

これは紹鴎の会ではありますが、なす茶入を詳しく記載されていて、その他についての記載は、少なくなっております。

釜は「てとり、つりて」とあることから、手取釜を釣って使われております。

次に初座では「くり色のたなの上に、なすびのつほ」とあります。

くり色とあることから春慶塗の棚の上に名物として名のある、紹鴎茄子を盆にのせて飾ったと考えられます。また、宗心宗匠の想像では、棚は二重で、上の天板に、茄子茶入を盆にのせて飾り、台天目は、台にのせて地板に置いたとしています。

掛物はありません。

後座では、茶入と天目は、点前座に移りますので、床があいてしまいます。

そこへ「中のとをりに、かぶらなしにうす色つハきを入テ」とありますから、無蕪花入にうす色椿を一輪入れたと想像されます。

これが後座での床飾です。

掛物は初座にも後座にもありません。

宗達が茶入について詳細に記しています。

「壺の薬一色也、薬はつれに、そと村雲立様成心在歟、こしのとをりよりも少さかりてする在、口うす也、土一段こくもなし、しゆなともなく候、かたにそと薬のはけたるやうなるうす薬在、其下に少さかりて石間在、惣別、土うすなる壺歟、口せハき壺也」と詳しく述べています。

客の関心はこの茶入一つに全集中していたことがわかります。

紹鴎は名物を六十種も所持したことで有名な茶人でもあります。しかしながら、如何にして道具一種の茶に徹するかを考えていたのが、以上の理由からわかるのではないでしょうか。

ごちゃごちゃと名物を入れてしまっては鑑賞会のようになってしまい目移りしてしまいます。

また、名物ばかりを羅列すると自慢のようなことにも繋がりかねません。

名物だけに限らず、趣向やテーマが行き過ぎてしまうのも戒めなければいけません。

なぜなら、自ら趣向をあれやこれやと凝らして作為をすれば、どんなに良い演出であっても、それはすべてが「自我」を相手に押し付ける自分勝手なお茶と言えるからであります。

演出は演出でしかない不自然で悲しいものです。

真のおもてなしとはうらもなしのときに自然と成立するものです。

そして、無一物の中にこそ無尽蔵のお茶はあるのです。

何故かわからないが、自然と心が通じ合える。

それがお茶の目指すべき極致ともいえるのではないでしょうか。

それを成すためには、亭主や客という歴然はあるが、分別せずに互いに思い合う。

思い合うためには自分から相手の立場になりきってみることも大切です。

心ひとつ 道具もひとつ お茶一服

佐々木宗芯

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