ある人が描いてくれた「茶人」絵
人には「なりたい」とする願いがあります。
幸せになりたい、偉くなりたい、美しくなりたい、立派になりたい、自由になりたい、英雄になりたい。こうなりたい、あぁなりたいなどといった願いがあります。
人によってさまざま願いの方向性が異なりますが、共通してあることは「なりたい」という未来への希求を有しているということであります。
また、今の自分を新たにしたいとする意味もあります。
では、「なりたい」とは何を示すことなのでしょうか。
それは、今の自分から理想の自分へかわり成るということであります。
それは今の自分という存在を新たにし、もっとも素晴らしい自分に変わり成りたいという願いでもあるのです。
もっと言えば、今の自分を誰かに代わってほしいのです。
自分の願とするものはどうにかしてやりたいという、自力を源泉としております。
しかしながら、その願としたものに囚われすぎるとその力により自滅してしまいます。
また、それらに執着してしまいます。
では、どうしたら得難き本当の願が叶うのか。
それは。
人は自力さえも上手く超えていかなければならないということです。
自力というものは、自分が意識をして、自分に努力を課すという中での力となります。
それを超えるということは、自分に自力を尽くして、もうこれ以上に出来ないというところまで到達して、そこからまた一歩踏み出すことをいいます。
意識の中での究極にも及ぶ、突破を果たし、これ以上は進めないと思われるところも臆せず突き進むということなのです。
ここに、本当の人としての願があります。そして、先を切り拓いていけるのです。
そこで自分の意識していなかった力が湧き出てくるのであります。
人の願に対する執着は努力の結実として現れるものでもありますが、それを超えてこそ人の最も輝かしい本分というものは出て来るのです。
一つの願いが叶った先には普通では起こり得ないことが色々をなして起こるのです。
そして、本来の自分の色がヒョイと出て来るのであります。
そこに本当の願いというものがあるのです。
因と縁が合わさった時、願が結実し、その果となるのです。
そのために先ずは自分が大切にするべき縁や大切な人をしっかり見定めて、拝むが如く大事にするという心の働きが必要です。
私の大切なある人は昔からある歌手が好きです。
その歌手が歌う歌詞にこのようなものがあります。
「赤から黄色、白から黒へ」
大切な人はこの意味をこういいました。
何処へでも行ける。きっと行けると。
ミラクルは縁により起こるのかもしれません。
ある日、ある人との出会いにより変わるのかもしれません。
その道を正して選択できるのは今までの迷いを知っている自分自身だけなのです。
最後に北条時宗の逸話をお話しします。
北条時宗は、ある時に仏光国師という人物に尋ねました。
北条時宗「我々の生涯の大敵は、臆病という事です。どうしたらこれを上手く避けることが出来ましょうか」
仏光国師「その病のよって来るところを断ち切れ」
北条時宗「その病は何処から来るのですか」
仏光国師「時宗自身からくる」
北条時宗「臆病は、諸病のうちで私の最も憎むところです。どうして私自身からそれが出てくるのでしょうか」
仏光国師「汝の抱ける時宗という自己を投げ棄てた時、どんな感じがするか。それを果たした時に余はふたたび会おう」
北条時宗「いかにしてそれができますか」
仏光国師「一切の汝の妄念思慮を断ち切れ」
北条時宗「いかにしたら、わがもろもろの思念と意識を断ち切れますか」
仏光国師「ただ坐り、そして時宗自身に属すると思ういっさいの思念の源を徹底せよ」
北条時宗「私には面倒を見なければいけない俗事がたくさんあります。瞑想する暇がなかなか見つかりません」
仏光国師「いかなる俗事に携わろうとも、それを汝の内省する機会として取り上げよ。いつかは汝の内なる時宗の誰かなるを悟るであろう」
そして、時が経ち。蒙古襲来の報を受けた時、時宗は仏光国師のまえに現れ言った。
時宗「生涯の一大事が到頭やって参りました」
そこで、仏光が時宗に尋ねた。
仏光「いかにしてそれに向かわれる所存か」
時宗は威を振って答えた。
時宗「喝!!!!」
と叫んだのだ。あたかも眼前に群がり来る数万の敵を叱咤し去ったように。
それを聞いた仏光は大変悦んでいった。
仏光「真に獅子児なり、能く獅子吼す」
このような逸話が二人の中であったと思われます。
以上、願いとは。であります。
いつの日か、いつかは願いが叶います。
その願いを叶えるために先ず必要なことはただ一つ、大事にせよ。ということであります。
合掌
いまなんじ われの汝に語りかけ
喝破して 色とりどり
即ち色 空は是 無事の歩 無事の色
佐々木宗芯