物には魂が宿っている。とする考えが日本にはあります。
この考え方は物を尊び、勿体ないとする精神性が私たち日本人の心の中にあるから起こります。
物を捨てるのは勿体ない。
使わないのは勿体ない。
という日常でよく耳にする言葉の使い方の中には二通りの意味合いがあります。
「捨てるのは勿体ない」の意味するところは、まだ使えるのに、捨ててしまうのは忍びないという気持ちから起こっています。
それと同時に新しいもの、今の物より評価的な今で上に置く価値あるものを欲しいとする物欲の気持ちを戒めているということにもなるのではなかろうかと思います。
そして、例え価値が低くてもぞんざいに物を扱ってはならないとする戒めの意味も込められているのではないでしょうか。
また、今でも十分こと足りていることを知ってほしいとの思いから「まだ使えるものを安易に捨てるのは勿体無い」とする戒めが生まれたのでは無いかと思います。
そのため、物を捨てるのは勿体ないとする考えの根底には知足の精神性が宿っていると思われます。
二つ目の「使わないのは勿体ない」とする考え方には、道具や物としての役目を与えられながらも、使わずにそれを死蔵して死に物にしてしまうのは忍びないとする考え方があるように思います。
しかしながら、私たち人は厄介なことに、この「勿体ない」という精神の根底にある本質的な部分を忘れ、歪曲した形でひどく操られています。
価値ある物や高価な物、歴史的な物を使うのは勿体無いとして死蔵や秘蔵にしてしまうことがあるからです。
時や物によっては物の方が生きている人より価値のあるとする言説や考え方が残念なことに人の世の中にはあります。
しかし、物を勿体ぶって使わずに死蔵してしまうということは、言葉の意味する通り、物として「死んでいる」のです。
そして、物としての役目を与えられながら、それを果たせない可哀想なものに成り果ててしまうのであります。
物や道具が持っている本当の良さというものは、使うに従い、それを顕にします。
そのため、使わずに死蔵してしまうのは、勿体ないことであります。
真の意味において、物を尊ぶということにはならないのです。
また、役目を持つ物としての存在意味がなくなってしまいます。
特に茶道具というものは、実際に使ってこそ価値があり、輝き放つものなのであります。
その中でも、馴染みやすいお茶碗は顕著です。
茶碗が水やお湯、お茶を吸って、次第に本来の面目を出してくる。
茶碗の持っている真の姿や本来のありさまを私たちに顕にしてくれる。
そして、そのお茶碗の育ちようを見て、また私たちを楽しませてくれる。
こんなにも勿体ないことはないのです。
インスタでもあげましたが、写真のお茶碗に関する不思議なお話しをします。
昔、この茶碗が私のもとに流れ着いた時、本来持っている輝きはなく、カビの臭いをまとっておりました。
お茶を点てるとそのカビの臭いがより一層強まり、鼻を刺激してきました。
その臭いはこの世を人を拒絶するかのようなものでありました。
周りの者もこのお茶碗の臭いと輝きのなさに拒絶を示しました。
もうお茶碗として死んでいると。使えないと。
それでも、私はこのお茶碗で毎日お茶を点て、飲み続けておりました。
すると‥ある日、私の気持ちをお茶碗が汲んでくれたかのようにパッ!と悪臭がなくなり、輝き出してきたのです。
灰の中から小豆大の火がポッと現れ、それがだんだんと熱を持ち、輝き放つかのように、命が新たに宿り、生まれ出てきてくれたのを感じました。
臨済録にこのような言葉があります。
「龍、金鳳子を生じて、碧瑠璃を衝破す」
このお茶碗は大層な由縁もなく、褒められるようなものでもありません。
しかし、黄金色を放ちながら、鳳凰が灰の中から新たに生まれ出て、空へと駆けるかのように、このお茶碗も今を駆けて、生き生きとしております。
鳳凰にあやかり、名前を「金鳳子」といたしました。
この金鳳子、なかなかお喋りのようで、私がお茶を飲むたびに話しかけてくるような気もします。
まこと茶道具というものは不思議なものです。
お茶碗は生きています。
それは、お茶碗のみならず全てのお道具達にも言えることなのですが、お道具には生命があるのです。
お茶碗に命を芽生えさせて、大切に育てていく。そして、本来の面目、真価を出してきてくれた時に、他には無い本当の価値ある一椀に私たちは出会うことができるのです。
それは、茶の湯の楽しみの一つでもあるとは思いますが、真の姿や面目、価値を世に現出させることもお茶を成すものにとり大切な使命なのではないでしょうか。
そして、それを成すためには物を生かす道を知らなければなりません。
物に魂や命を宿らせる法を知らなければなりません。
その法を知る一つに「勿体ない」があります。
いくら高価なお道具を持っていてもそれを死蔵してしまえば、死に物です。
そのお道具の持っている役目や生かし方を知らないで使えば、それも死に物になってしまうのです。
安価なお道具でも、どんな道具でも、それを扱う人の心の働きや持ち方、向き合い方によって道具は答えてくれます。
そして、その道具の持っている本来の面目、良さを知り尽くし、生かし尽くすことも茶の湯の持つ生命、輝きなのではないでしょうか。
また、山上宗二記にも生かす法を知る導が記されています。
侘茶の道具の使い方について、「藁屋に名馬を繋ぎたるがよし」という言葉があります。
この言葉は村田珠光が言ったとされています。
これは、豪華な物や高価な物ばかりが一堂に集まっては、物と物とが殺し合い、一つ一つの道具の良さが埋もれてしまう。
そのようなことが起こらないようにするためには、粗末な藁屋に名馬を一つ繋げるかのように、本当に良いもの一つだけ用いる。
名物や道具は一種に徹する。
簡単に申し上げれば、これが侘茶の道具の扱い方の一つになります。
また、侘茶には無駄なものを省くという精神も包蔵されています。
それは、道具に対する無駄のみならず、人の心に生じるであろう無駄も省くということなのです。
例えば、豪華な物や高価な物ばかり集まった茶席では、人はあれやこちらと目が移ってしまい、本当の美しさを見出すのに疲れてしまう。
その無駄な心の働きや疲れを取り除くのに侘茶は心を尽くします。
これが、侘茶に包蔵された心働き、思いやりというもの、おもてなしというものの一つなのではないかと私は思います。
最後に。
こうして、目の前に置かれた一椀でお茶をいただけること。
これも、ただの土塊が陶工の手により形作られ、形を成して、私たちのもとに来て、ありありと命有るからなのです。
有ることが難いこと。有り難いことなのです。
手でお椀の形を作って、お茶を点てても、スルリとお茶は無くなってしまいます。
器があって、私たちははじめてお茶が飲めるのです。
人はこの身一つのみで全てを補い、生きることはできません。
それは、目の前の茶碗のみならず、それを形作った陶工にも生かされているのです。
このようにして多くの物や人に私たちは生かされているのです。
私たちはそれら見えないものに対する感謝の念、勿体ない気持ち、お陰様の気持ちを忘れてはいけないのではないでしょうか。
茶は緑 花は紅 真面目
佐々木宗芯