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お茶を好きということ 流派を恐れる人の心理

お茶が好き!怖い!

茶道と聞くと流派の事を先に思い起こしてしまい怖い。茶の湯と聞くとわからないけど怖くない。

茶道を習ってみたいけど入門の窓口が怖い、見つからない。

お茶の美味しさってなんだろう。

茶道について色々な感情をお持ちの方々は多くおられます。

お茶はお茶であります。しかし、いと深き人の煮詰まった心とも言えます。

では、先に流派形成のお話をいたします。

流派の関係とは特定の事柄を好む者、同じ流派の構成員のみで組織された似た者同士の煮詰まった特殊な状況下に存在する社会関係を一般的には示すものであると思われます。

特殊な社会関係とは世間的な社会集団関係から一時的に離脱し、新たに形成されている小集団と定義します。

そのため集団化された小規模の集まりには知や思考の共有が図られ、一種の集合知を形成していきます。共有化されたものは構成員に対して無意識の行動や暗黙の強制行為を引き起こす集団心理が作用いたします。

集団心理の特徴として挙げられるのは、匿名性があること、自分が強い力を持っていると誤認することなどがあります。また、集団心理が及ぼす影響を四つ挙げます。

一 道徳性が低下する

二 暗示にかかりやすくなる

三 思考が単純化する

四 感情的に弱くなり、動揺を引き起こす

この一連の集団形成にはトップダウン型の意思決定がよく機能し、その意思の共有化が行われます。それらの働きが流派を生み出し、後に人から人へと広がり大きな集団として誕生するに到ります。

茶道は道とも書くことから先に歩いている人々がいます。

先人若しくはその道を先に歩いている人物から自分への継承行為が絶え間なく行われます。時代を超えた形での集団、構成員が続くように連なりその道を歩いている状況とも捉えられます。

茶道は連なり歩くことを是とした要素が強く求められることから怖いとする印象が一般的には成されます。

しかし、以前お話したように茶道は自己を知る方便でありますから怖いものでは本来ありません。人が怖いのは人であると申すように茶道に対し、怖いとする感情が生み出されるとしたらお茶の世界の住人に責任があるということです。

流派のお茶などでは郷に入っては郷に従えが絶対的基準のもと求められます。この暗黙的ルールの強制は伝・統のもつ言葉通り「伝えを統一」でございます。

お茶の意思とするなら「伝灯」が良きですね。

伝灯は清流無間断と意味するとことは同じであります。清い水は絶え間なく流れるが如く、常に動きあるものには常に清らかさがともなう。不断の流れと働き、そして努力を求めることは良き心がけになる一歩になります。水は清い面だけではなく必ず不純も含まれており、その淀みさえも等しく同々にする森羅万象も時には必要です。そのためには水の優しく恩恵のある面だけではなく、石さえも砕くほどのエネルギーも求められます。水滴石を穿つ 間断の清流

そのため最近では一般から恐れられている流派のお茶の門を簡易にした形での動きがあります。例えば「テーブルで行う茶道を主とした一種の会やその流派」「茶道の稽古をせずに自宅でお茶サロン」などです。

私は人が純粋に好きな故、どのようなお茶、茶風でも好きであります。茶道の門を一般の人が入りやすく簡易的にする動きには大変感心しております。今後の展開が楽しみです。

しかしながら、茶道を縦型組織の「特定流派のお茶」と限定して見てしまうことは大変もったいない事実であると思います。ただ喫茶するお茶文化を「道」のつく精神の結びにまで昇華させる要因を作った村田珠光、村田珠光の精神性を受け継ぎ、更に侘び茶の湯を世に発現させ、簡素で無常観を取り入れ、発展させた竹野紹鴎、師の竹野紹鴎の心を受け継ぎながらも深くその精神性を尊び、是とする当時のお茶(古き概念や点前、その慣習)を破壊し、自分の哲学のもとお茶(茶風)を築き上げ、大切にした千利休。師の茶風からまた新たな茶風を生み出していった利休七哲。そして現在にまで形を多少変えながら残り続ける歴史伝統あるお茶や新たなお茶。

どのお茶も素晴らしく尊いものであります。

立花大亀老師は「利休に帰れ」と申しました。では私はその言をお借りして続きこのように申し上げます。

「利休を超えよ 自分を超えよ」

茶の湯について千利休は「茶の湯とはただ湯を沸かし、点てて飲むことばかりなることを本と知るべし」と言いました。分かりやすいシンプルな意味でもありますが、深き意味もあります。表は簡素ということは裏に深きこともなければ一体にはなりえません。

一 湯を沸かす 二 点てる 三 飲む

この三つも行っているなら茶の湯と理解されます。この言葉を聞くとやはりお茶は怖い文化ではないということが伺えます。

お茶は人と人の関係上で成り立ちます。全ては人です。お茶の美味しさは点ててくれた人の思いにより、点てたときの自分の感情により左右もされますが基本は心であります。

良き心に美味しいお菓子とお茶。甘いもの食べて、苦味のあるお茶を一服。甘と苦は一体でありますから、良きに調和されます。その美味しさを人は知っていたから茶室に集うのだと思います。そして忙しなく流れる心を清め落ち着かせるために露地を歩み、俗世から離れた空間たる茶室を愛したからこそ現在にまでその系譜があるのだと思います。

日本文化を記した書「日本教会史」にてジョアン・ロドリーゲスはお茶(茶の湯)の実践する場を「市中の山居」であると書いています。人の行き交う町中にある、簡素な庵や自然豊かで山の道のようなその至る露地は宣教師のロドリーゲスからしたら山小屋が町に飛んできたようなファンタスティックなものに写ったのだと思います。

隠者は俗世を離れて一人山に隠れ、茶人は俗世の中に安らぎを求めます。

世間にありながら多くの人にとり安らぎの体現こそ茶人の本懐の一つでもあります。だからこそお茶人を中心とした安らぎあるお茶には多く人は集っていたのだと思います。

私は茶の湯も茶道もともに同じ意味ではありますが大好きです。何故なら人が大好きだからであります。やはりお茶は自分がいて人も存在してはじめて成り立ちます。人のすべてが好き、だからその人の思考や心、その行動を自分の物差しで判断して好む好まざるを区分けする必要もありません。自分が満足して今を生きられるのは人や自然の大恩を受け、お陰様でございます。

お茶が好きな方は根本的に人が好きなのだと思います。

だからこそ人の競争原理が働き、どの流派が優れているか、私が、私の流派こそ!と否定批判し合う今の一部のお茶には嫌気がさすのだと思います。「あの席はあのお茶は」とか「あの人は」という言葉を少なからず聞いたことがあるのでしょう。誠に残念であります。そして代わりにお詫びいたします。

流派も人も年齢も超えて交われる皆が等しい横断的組織として社会に存在出来るように私たち北茶は日々努力しています。そして貴方が築き上げたいと願い、若しくはすでにお持ちのお茶風やお心を私ども北茶はお支えして、お守りいたします。結果茶道が振興され、和顔愛語のあるお茶の世界になるように。多くの人にお茶を飲みに「きたさ」と呼んでいただくことを切に願い。

人を好好 日々を好日 堂々にして動じず

佐々木宗芯

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