私たちが普段何気なく使っている美しい言葉に「ありがとう」があります。
何かをしてもらった時、恩や有難味を覚えたときにこの言葉は使われたりします。
しかしながら、「ありがとう」という言葉に包蔵されている真の価値を知らない人は多いのではないでしょうか。
今日は「ありがとう」という言葉が持つ本当の価値やその心の働きについてお話していきます。
言葉の価値を知る前に「私」や「自分」について知らなければなりません。
私や自分の意味することを大きくみていくと二つに分けられます。
一つが「私の身体」
二つ目が「私の心」
この二つに分けることができます。
「私の身体」とは、五感や心の働きにより動かされる自分自身を表現する手段と置き換えることもできます。また、身体の状態を誰よりも知っているのは自分自身であったりします。
身体の感覚的なものから、身体内部の不調や細胞レベルでの知覚なども同様に該当するのではないでしょうか。
他人から見れば一見普通で変わらない身体の変化である場合でも、自分の身体の苦しみや変化、痛みなどは感覚器官を通じて自分が一番知っています。
例えば医師はその体の苦しみを推測できても、その苦しみや痛みを感じることはできません。
心の具合によって変化するのも私たちの身体の特徴であります。
ただ、心についていえば、心の働きや在処により変わる身体を認識、理解できないのも私たち人の性であったりするのです。
二つ目の「私の心」に関して言えば、私たちはその自分の心があることは認識できているが今自分の心がどうなっているのか理解できないことがしばしば発生します。
もっと言えば、心の具合により生じた身体の変化を認識できていない状態ともいえます。
そのため自分ではわからない心の変化や在処を他人の方が敏感に感じ取り、知っているということが起きます。
心とは環境のみならず、家族や恋人、友人やその他の人々との社会的環境との密接な関わり合いによりつくられている部分が多いからであります。
多くの人は人との関係によりその心の有りようが即時に変化するようになっています。
例えば家族や恋人に対し好きとする感情や愛情を感じるため愛の有る行動を言葉や身体を通じて表現する一方、他方、別の人に対しては嫌悪感や恐れ、軽蔑などを表現したり、感じたりします。このように人と人の関係性は個別により成り立っているといえます。
これは人との関係のみならず、場所や食べ物や玩具、書物、環境のあらゆる事物に対しても異なる仕方で接します。
このような事柄を通じて多くを経験したり吸収したりして人格を作られていきます。
また、好きなものをしている時は幸せや楽しさを感じ、取り入れたりします。
しかし、嫌いなものや恐れをいだくものには逃避行動や嫌悪感を示します。
それら行動の背景には自分自身の心が過去に経験した事物が関係しています。
その心の働き方は個々人で異なります。また、無意識で形成されていたりします。
このように私たちの心の形成は知らず内に養われ、作られている側面もあるのです。
私たちの心と身体は密接な関係によって成立しています。
心が身体に影響や行動を引き起こさせる原因に存在する一方、身体が心のあり方を変えたりします。
心を「考える主体性」とすると身体とは「それら心に追随する形で機能する別の主体性」と言い換えることができるのではないかと考えます。
現代の心理学では感覚的知覚や情動はともに各個人の身体的行動の特定のシステムの働きと分離することができないほど密接に結びついているとしています。
心で他者の心に触れたから、それらの表現を言語化して言葉にするなども、心の働きの結果ともいえます。ただ、言語と人の身体との関係は大脳の二つの言語中枢の働きにあることはわかっているが、それ以上のことは未だに不明であると言われています。
人の心は何事も「知る」を通じて発露します。
英国の哲学者のギルバート・ライルは(「・・・であることを知る」)(「どうするかを知る」)の二つの知に区別しました。
例えば「ある物がパソコンであることを知る」とか「日本は経済大国であることを知る」といった事実的な知と、「パソコンの使い方を知っている」とか「ゲームの遊び方を知っている」などの経験的な知とは別物であるということです。
前者は知覚とか言葉として知っていることを意味しています。
後者は訓練や経験を通じて身体の使い方を知っているという意味の知になります。
ここまでは私の身体や心についてのお話をいたしました。
ここからは本題の「ありがとう」の真価についてお話します。
「ありがとう」という言葉には何が包蔵されているのか
それは一言でいうと感謝の心といえます。
相手の想いや思いやり、有難味、恩を感じ入ったから言葉を使って自分の感謝の心を表現する。
しかしながら、この「ありがとう」という言葉を無意識で機械的に使っているのも私たち人であります。
なぜそのようなことが起こるのかといえば、「この場面では」「このようなことをされたら」「ありがとう」をいうことが正しいことを「知っている」からであります。
では、機械的、経験的に申し上げる「ありがとう」は本当の感謝の価値を持っているのかといえば、疑問が残ってしまいます。
なぜなら、真の感謝の心とは自分自身の心中において本当に有難味や恩を感じられたときにしか出ない様になっているからであります。
しかし、それら感謝の心を無意識から意識に移し替えることで、自分自身が多くのものや人に生かされていることを意識的に「知る」ことができます。
今こうしてご飯が食べられること、動画が見られること、水が飲めることなどは多くのお蔭様がいるからであります。それと同じく、相手がいるからこそ自分はこの世にいられるのであります。
また、こうして親からいただいた命、命そのものの幸せ、こうして満足に生きている事実にすべからく感謝することも大切なのです。
人の思いやりに触れたら真心から「ありがとう」と伝える。
そんな当たり前のことを日常でも普通にできる人がこの世にとってえらい人なのです。
また、よい言葉をたくさん使い幸ふところに人間としての深みや価値は生まれるのです。
もっとお互いに思い合い、よい言葉をかけ合い、仲良く話し合うことが大切です。
衝突があったとしても否定するのではなく、お互いよく話し合い、意見を交換し合うことで、人と人は信じ合うという意味ある価値を互いに育むのではないでしょうか。
そのためには相手を信じること、今からすべてに「ありがとう」とする感謝の念を常に持ち続けられるように自分で意識してみなくてはなりません。
「先罪を悔ゆべきことを説いて、而も過去に入ることを説かざれ」
維摩居士の言葉であります。
過去を省みて自己を反省することはとても人として大切なことではあります。
過去を懺悔して同じことを繰り返さない様に心すると決めたら過去は忘れなければいけません。
そうしなければいつまでも過去に心を捉われたままになってしまいます。
それは過去に対する執着であります。
執着する心はいつまでも残る記憶から発生しています。
ご飯を食べたら自然と消化されるように、人も自然と記憶を消化していかなければずっと苦しいままであります。その状態では新しいものを取り入れられなくなります。
済んだことは忘れるに限ります。それが日々を新しく迎える手段であります。
人は楽しかったこと、幸せなことはいつまでも有難く覚えているものです。
しかし、失敗したことや恥ずかしかったことはすぐに忘れてしまいます。
そして、恨みや憎しみはいつまでも持ち続け、それらに自分を縛られ、強く執着します。
それではいつまでも消化しきれず苦しいままであります。
有難味を感謝の心にする。
失敗や恥ずかしかったことは省みて成長の糧にする。
憎しみや恨みは過去の記憶がそうさせているだけだから忘れ、前に新しく進む。それが大切であります。
盤珪禅師という方がおっしゃったように、姑が憎い、嫁が憎いというけれど、それは過去の記憶が憎いとなっているだけであり、その記憶さえ捨てれば憎いものはどこにもない。毎日毎日、新しい顔を拝めば、自ずとつねに心も新たになります。
人は済んだことに執着します。
それは人に対し、してあげたことも同様に執着します。
人にしてあげたことをいつまでも恩着せがましく持ち続けてはいけません。
それが人と人との関係を深めるには大切なことだからであります。
いつまでも相手に報恩を求めてはならないのです。
何より、人にしてやったこと、してもらったことも忘れるところに本当の愛情があります。
心を常に新しくするには済んだことを省みたらすっかり忘れるに限ります。
自分自身から素直に発されるものは、小さなものでも大きな力があり、命があります。
それは他人の真似できないところでもあり、その真似できないところに本当の自分がいるのではないでしょうか。
人には誰でも彼でも真似できない価値がなくてはなりません。そうあってほしいと願うのです。
自分を目覚めさせ、研ぎ澄まして本当の自分になろうと思わなければいけません。
多くの人は他人になろうともがきます。誰かのファッションの真似や憧れの顔を真似て、歩み方を真似し、表情や主張さえも真似をする。そして感情や心まで真似しようとして、真似を尽くして、此処にまがいものの人形ができるのです。
そうならないように、自己の目標を定め、本当の自分を探し、人生を生き尽くすことが大切なのです。
心が完全ではないとき、命や魂は不完全であります。
心が完成したとき、命は完全となるのです。
「かっこよく生きる」ことを私の大切な人は人生の目標として掲げています。
そのきっかけになった存在に父親がいるとも話してくれました。
人によって「かっこいい生き方」は異なります。それでも、そのきっかけになった人物の生き方を拝し、いただき、型を真似てみることも、自分の成長を促し、研ぎ澄ましてくれるものではないでしょうか。
型から入り、型を壊して、そして離れたところに本当の自分を見出すことができるのです。
そして、いつの日かその人を越えて、「ありがとうございます」と感謝と恩返しをする。
そんなところに人間の真価はあったりするのです。
必ず「かっこいい生き方」をさらに洗練させ、貫き通せる人物であると私は大切な人を信じております。
人間の真価とは「ありがとう」と常に真心からいえるところにあるのでしょうか。
本当の意味において「ありがとう」という言葉を知っている。その感謝の形をこの世や人に行動で御返しできること。そして、しっかりと相手をみて「ありがとう」といえる人がかっこいい生き方をしている、えらい人なのです。
「ありがとう」という真価を見出すのは自分であります。
今からでも相手に「ありがとう」と真心から、恥ずかしがらずに伝えてみませんか。
この美しい言葉は自分の世界を実りあるものにきっと変えてくれます。
よき言葉に溢れているこの世に。感謝と合掌。
生まれたことにありがとう 生きていることにありがとう
相手にありがとう 自分にありがとう
すべてにありがとう
佐々木宗芯